実際、記憶の彼方にある幼い頃の光景は美化され、かけがえのない宝物になっている。ぼくは、三歳でどこかの浜辺に家族と旅行に来ていて、記念撮影のために浜辺の端にある大きな石の上に座らされた。大人にとってはたいした大きさではなかったはずだが、三歳の子供にしてみれば、自力で降りることができない大きさで、いきなりそこに座らされたぼくは恐怖で引きつって大声を上げて泣いてしまった。
それは子供特有の甘えで、親のことを信用しているぼくは危険な目に合わされることがないという信頼をもち、親の愛情も十分感じられていたのに恐怖を感じてそれを最大限に主張したのである。一抹の不安もないのにぼくは訴えた。怖いよ。こんなところに座らせないでよ。落ちちゃうよ。助けてよ。
音楽を聴いていると、専門でそれを学んだことがないにも関わらず、初めて聴いたはずなのに、次にくる音の流れがピタッと予測できることがある。音楽理論も知らない。コードも知らない。なのに、次にこの音がくればしっくりくるなと感じてしまい、実際そのとおりの音がくることは多い。これは絶対音感とか音に対する鋭敏な感覚があるとかではなく、人間が備えているプリミティブな感性なのだと思う。
子供はそれらのことを身体でわかっている。跳躍する前に力をためること、目で見るだけで意思が伝わること、歪みが不快なこと、青が寒くて赤が暖かいこと、イメージすることが大事なこと、話すことが力になることすべてわかっている。でも、それを理解した上で理不尽にふるまってしまうのをやめることができない。
日々はかけぬけてゆく。それは緩やかなようでいてはやい。歩いてどこかへゆく、新しい場所ですべてを目におさめる。人と話して知識を得る。おいしいものを味わって食べる。驚く。悲しむ。楽しむ。歌う。汗をかく。だから、忙しい。体験はどんどん積み重なってゆく。それはどんどんたまって記憶になってゆく。
美化された記憶は改竄された記憶ではない。それは心の糧だ。思い出を再び体験することはできない。思い出は記憶であり、遠い風景。そして宝物なのだ。