読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

明るすぎて何も見えない過去

 確かここは幼少のころ一度訪れたことがあったのではないかと一生懸命思い出してみる。フラッシュバック。泣いてる自分、若い母の笑顔、土と潮の匂い、大きな岩、血のついたティッシュ

 断片が絡まりあい、一つの大きなうねりになりそうでならないもどかしさ。

 手を伸ばせば届きそうなところにそれはある。見てはいけない真実。だが、確かにぼくはそのことを知っている。何があったのか、この目で見ている。記憶の底に沈んでしまって、多くの時間が降り積もってしまった為、決して浮上することがなかった忌まわしい過去。

 誰かが叫ぶ大きな声、水に沈む白い手、みんなの目に光る涙、夕焼け、砂浜。

 ぼくはすごく悲しくて心細くなったんだ。母と一緒なのに、なぜかとても不安になっていた。

 ゆっくり、ゆっくり、記憶が甦る。ぼくと血の繋がった誰かの記憶。妹?それとも弟?

 まだ小さかった彼、もしくは彼女の身に起こった悲しい出来事。

 ぼくは静かな浜辺に立っている。世界は黄昏だ。ラグナロクだ。ぼくの側には大きな岩がある。波のかからない場所にぽつんと、まるで誰も訪れなくなった廃駅のように。

 海は凪、波のたたない海面が金色の鏡になっている。その中に囚われている誰かが、ぼくに手招きする。

 やがて空は金から藍へと色を変えてゆく。水平線の彼方に黒い点が一つ浮かび上がる。ぼくを迎えにきた舟が静かに音もなく近づいてくる。ぼくは甦った記憶と共に旅にでる。静かな海。藍の空。またたく星。

 息が白くなり、彼女の頬を涙が伝う。

 ぼくはゆくよ。明るすぎて何も見えない過去へ。長い髪、黄色い声、甘い香り、嘘そして黒い影。