とんでもない話だ。まったく関係のない時代と場所のそれぞれ三つの物語が交互に語られる。でも、そこに混乱はない。このチカチーロ似の素敵な作者は、それぞれの物語を強烈な吸引力で引っ張ってゆくのである。
舞台となるのは、遠い未来の宇宙船、18世紀のコンスタンチノープル、現代のアメリカのとある図書館。先にも書いたとおり物語は重層的に語られる。読者はそれぞれの時代と場所にいきなり抛りこまれるが、そこで描かれる生きた登場人物たちと共にそれぞれの物語をなぞってゆく。それは、晴れた日に真っ青な海に飛び込んでゆく爽快感と暗い洞窟をライトを手に恐る恐る進んでゆく緊張感とこの先に何が待っているのかわからない期待などがごっちゃに合わさったようなワクワクする体験だ。
臆することはない。多くの読者はここに遊び、知ることの勇気と喜びを体験するだろう。ぼくは、本書を継続して読まないようにした。これは個人的な感覚なのだが、本というものは、開く回数が多いほど身体の中に染みつき記憶に残るものだと思うのである。これは、一人の人間を理解してゆく過程と似ている。誰でも初めて会う人には、心は開けないと思う。その人と何度も会って同じ時を過ごし人となりを受け入れる。本も同じ。本を開く行為は人と会うのと同じ。そしてその度にリセットされた気持ちがその本を受け入れる準備をし、徐々に理解してゆくのである。どうしても、面白すぎて先が気になり一気に読んでしまう本は、楽しい時間は過ごせるけど自分の中に留まらない。すぐ忘れてしまう。だけど、こうやって少しづつ読む本は、記憶の襞に様々な場面が残るのである。
そうやって読んでいたが、思わぬことにこの物語は失速するのである。三つのまったく違う世界の物語。それぞれが緊張と緩和を繰り返して進んでゆく。それぞれをつなぐディオゲネスの「天空の都の物語」。本来なら、これらの要素が緊密に相乗効果を生み、物語全体を盛り上げてゆくはずなのに、構成の巧みさは理解できても、最後まで心を揺さぶられることはなかった。いままで読んできた彼の傑作群で味わったような発見や美しさ、そして豊饒さは、本書からはあまり感じられなかった。最新作だけに、少し残念な思いが残った。いままでの作品が素晴らしすぎたのか。次の作品に期待したい。
東 雅夫 編「稲生モノノケ大全 陽之巻」
稲生物怪録はまさしく都市伝説のはしりのような話で本筋は詳らかにされているが、その伝わり方が諸説あって定かではない。怪異そのものを体験した本人の話、その同僚の話、国学者がまとめた話、それ以降も名だたる作家たちがこの物怪録を小説、戲曲、紀行などに描きなおしてきた。それらと原典をまとめたのが本書より先に刊行された「稲生モノノケ大全 陰之巻」であり、本書は現代の作家たちが新たな視点で語りなおした稲生物怪録なのである。ラインナップは以下のとおり。
旧耳袋 もう臭わない 京極夏彦
逆しま屋敷 菊地秀行
異本 長島棋子
文月問答 加門七海
釣りぎつね 越水利江子
SRP 小林泰三
砂浜怪談 牧野修
逢魔の夏 福澤徹三
夢三十夜 津原泰水
平気の平太郎 魔王の館の巻 寮美千子
菩提町日記 佐藤弓生
クリスタルジーレナー 秋里光彦
魔王 ―遠い日の童話劇風に 皆川博子
音迷宮 石神茉莉
生者・死者・物怪 松本楽志
妖鼓変 戸隠珠子
七月の客《まろうど》 サカジリミズホ
三次もののけ殺人事件 ひらさとひよこ
風流化物屋敷 山本周五郎
有名作家ばかりの中に知らない名前が何人かあると思うが、皆川大先生から山本大先生までの間の五名は一般公募の入選作品なのだそう。
ここで稲生物怪録なるものがどういうものなのか、ざっと紹介すると江戸中期、備後に実在した稲生平太郎という16歳の少年が隣家の権八という相撲取りと肝試しをしたことをきっかけに一カ月もの間、毎日奇怪な現象に遭うことになった。しかし平太郎は常人なら恐れおののくそれらの現象にも屈せず、最後まで逃げ出さなかったので、月の終わりに物の怪の魔王である山本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)が現れ「今後、魔王神野悪五郎が現れたならば、これを使えば、我加勢す」と槌を渡し、眷属を引き連れ去っていったというもの。驚くことに、現在でも広島に稲生平太郎の子孫が在住しているらしい。
以上のことをふまえて本書に収録されている短篇を読んでみると、あの手この手でこの希代の怪異物語が料理されていて楽しい。特別これがすごい!っていう作品はなかったけど、十人十色それぞれの料理の仕方があって飽きさせない。こうくるか、そうくるか!と驚き楽しみ読んでいった。特に印象に残ったのは菊地秀行と皆川博子。前者はあの幽剣抄のシリーズを彷彿とさせる化物屋敷物で、手堅い印象だし、後者は、この題材をこんなに大胆に変えちゃう?と驚いた。だって、オーディンですよ?有翼蒼狼ですよ?いったいいつまでこの作家に驚かされることか。
二百年以上語り継がれてきた怪異が、こうやっていまも新たな物語を生み出しているという事実にあらためて驚く。泉鏡花「草迷宮」くらいが打ち止めかなって感じなのに、こういうのってくり返され語り継がれていくんだろうね。
松本清張「浮游昆虫」

清張の短編集の中では、あまり見かけない本だ。収録作は以下のとおり。
「浮游昆虫」
「閉鎖」
「皿倉学説」
「相模国愛甲郡中津村」
「振幅」
それぞれ様々な趣向が凝らしてあって、安定のおもしろさだった。表題作は、戦後の混乱期に大学建設用地を格安で手に入れるという目覚ましい活躍を認められ一介の講師から理事にまで抜擢された野心に燃える男の画策を描く。手回しと周到な罠で邪魔者を除外せんとする彼の前に立ちはだかる敵。落とし落とされの駆け引きがサスペンスフルに描かれる。
「閉鎖」は書簡で書きすすめられるミステリ。田舎の百姓がふっつりと消息を絶つ。当時としては大金の二百万を用立てた帰りの出来事である。真面目な性格で、唯一酒を飲むことだけが楽しみだった男。物取りの犯行だと見当がつけられ捜査が進められるが、そこには驚くべき真相が。
「皿倉学説」は、なんとも魅力的な話で、いまは落ちぶれて教え子たちのお情けで大学に名誉教授として籍をおく主人公のお話。本妻とは別居し、妾の狭い家で暮らしているこの名ばかりの教授は週に一回たいした仕事もないのに大学に通う生活を続けている。そんなある日、彼は弟子の一人から茶飲み話のついでに医学雑誌に掲載された奇妙な論文の話を聞く。推定でしかなかった聴覚機構の脳内での役割に関するとある説を、猿を実験台にして検証したというのだが、猿と人間では脳の細胞からして異質なので、その検証は空想の域をでないものになってしまう。しかし、このお笑いぐさのトンデモ学説に妙な魅力を感じた主人公は、これを唱えている四国の市立病院の内科部長の皿倉という男のことを密かに調べる。
こんなふうに始まるこの短編、事件もなにも起こらないのに、グイグイ読ませる。主人公の落ちぶれた現在の境遇と、それでもなお生理学者としての鋭い直観を失っていない姿が交錯し、どんどんページを繰らせる。
「相模国〜」も、明治初期に起こった贋札事件について神田の古本屋で出会った好事家とのやりとりから、世間一般で知られているのとは違う真相が浮上してくるという話。この短編も「皿倉学説」もいわば知的好奇心の話であり、物語の主人公たちが感じる新たな発見の興奮が読み手にも伝わってくるところが魅力だ。しかもこの二作どちらもラストは不穏に終わる。まったく心憎い仕上がりなのである。
「振幅」も、派手な仕掛けや展開があるわけではない作品なのに、とても印象的。ラストの澄んだ金属の音がいつまでも耳に残る。
というわけで、すっかり堪能。読むほどに清張の魅力にどっぷりハマっていく。わるいやつらばかりではなく、こういった純粋な知的興奮や歴史のロマンをも掌中のものにしてしまう彼の魅力が横溢している短編集だった。
背筋「目が」
またまた登場したこの小さい本。前回は口だったけど、こうきたら第三弾は耳だったりするのだろうか。
それはさておき。あいまいな基準を軸に展開される目もしくは視線に関するお話は、三つのエピソードで成り立っている。そこにはささやかなギミックも仕掛けられており、最後まで読んでそういうことかと腑に落ちることになる。
不穏なフィルターは常にかけられていて、なんとなく居心地の悪さを感じながら、目というか視線に関する話をすらすら読んでいく。被験者を使った視線についての実験。いかがわしい監視のバイト。変なポイント稼ぎに熱をあげる彼女。それぞれが日常から逸脱した特別な感情を呼びおこす。
しかし、少し弱い。手頃だし「口に関するアンケート」の映画公開に合わせての刊行だしまたまた売れるだろうけど、各エピソードを読み終えたときに残る決定的なイメージには乏しい。正直なところインパクトはない。時間つぶしにはなるけどね。
視線の罪が悪意を増幅させるという怪談は、さほど目新しくはない。怪談というよりヒトコワか。もう少し印象的なエピソードがあれば良かったと思う。でも、増殖という現象は不穏で生々しく不気味だ。集合体への恐怖もあいまって、嫌な人にはすごく嫌だろう。ぼくは、まったくなのだけどね。
水須ゆき子「風の心臓」
喪失が感情を呼び起こす。日々の中にある惰性と厳しさ。乗りこえるために、感情のままに字を綴る。結実した成果が本書におさめられている。
ねえ月がきれいだよって娘からLINEが来てて別れたらしい
ごめんなさいきらいでしたと悲しげな顔を作って焼香済ます
腐りかけのチーズのような明るさで金貸してよと弟が言う
酸素マスクずり下げながら腹減ってないかと問いぬ瀕死の兄は
知らぬ、出会ったことのない女性の人生の切りとられた場面がにわかに立ち上がる。母、父、夫、娘、兄、弟そして猫。著者の身内とのやりとりが残酷に克明にやさしく突きつけられる。美しさの中にある厳しさ。哀しさと共に感じる達観。時に喜びが生をつなぐ。
言葉の配置の的確さ、うるおい、鮮烈、光、一体となった短い結晶が心に響いてくる。いつものごとくぼくも刺激されて作ってみました。
忘れない忘れていてもわすれない変わらぬ笑みの歩けぬ母さん
少しづつ欠けてく身体とどまらず気持ちの内はあの頃のまま
寝たきりの父が乞いし氷菓子はねつけたこと今でも悔やむ
この切りつめた豊かな世界。言葉の可能性は無限大か?感性は広がり続けるのか?疑問は驚きとなってかえってくる。それも接する度ごとに。気持ちの揺れを確かめたくて、また本を手にとる。
ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」
ようやく読む気になった。文庫化されるとは思いませんでした。これで未文庫化のビックネームは「薔薇の名前」だけになったかな。リチャード・パワーズとトマス・ピンチョンもあまり文庫化されていないけどね。
やはりこの作品は特別みたい。だって文庫のスピンも金色だしね。単行本でも二回刊行されていて、ぼくは当初のを積んでいたのだが、これがああた、ページ全部に字が密集していて、しかもすごく小さいから、まったく読む気にならなかったのだ。マルケス全集として再刊された時も、少しは読みやすくなっていたが、もうすでに持っているからなと買う気になれず、そうこうしている内に文庫化のお祭り騒ぎが到来したというわけ。
まあ文庫になっても字数の圧は変わらないわけなのだが、手に取りやすくなった分、気軽に開けるので車中本として二カ月かけて読了したというわけ。
本書を読んだ人、読もうとしたけど読み切れなかった人、読んでみたけどわけがわからなかった人、さまざまな人がいることだと思う。ぼくは本書を読んで、物語としてストーリーを追うという読み方はしなかった。なぜなら、読み始めてすぐにこの世界が循環していると感じたからだ。本書の中で時間はたえず繰り返される。エピソードの積み重ねによって語られるマコンドの歴史は、ぼくの頭の中ではブランコに乗っている感覚だった。前へ後ろへと振れ動くたびに景色が変わり、それが幾重にもかさなって層が作られてゆく。重ねられた層の中から、奇妙な出来事が強烈なインパクトを伴って頭に刻み込まれてゆく。磁石の棒を売るジプシーが通りを歩くと、釘や金物が引っ張られて家が揺れ動いたり、海から遠く離れた陸地に座礁している大きな船があったり、幽霊は普通に現れるし、土を食べずにおれない美少女がいる。族長が死ぬと空から大量の黄色い花が降ってきて家畜が窒息するし、文字通り天へ昇っていくものまでいる。
そんな出来事がまだまだ続く。それが、コロンビアの歴史と同列に語られる。マコンドと共に歩み、やがて滅びてゆくブエンディア一族の百年の歴史。栄枯盛衰なのだ。ゆえに、本書は平家物語でもあるのかもしれない。ま、すべての歴史はそうなるのが必定なのだけれどね。そうして予告された一族の歴史は匂いも影も残さず消えてしまう。しかし、長い間この物語と向き合ってきたぼくに喪失感はない。一族の彼や彼女の顔が浮かぶだけである。許されるなら、この世界にとどまりたい。そう願うほどに濃密でむせかえる読書だった。
森川智喜「スノーホワイト」
「キャットフード」の作者だから、また特殊設定の世界で本格をやっているんだろうと期待して読んだ。今回の解説は法月綸太郎だし、第14回本格ミステリ大賞を受賞しているし、前作よりもっと本格なのだろうと思ったのである。
本書で扱われるのは『魔法の鏡』。鏡に聞けば、どんな問題でも即解決。だから、この鏡を持っている探偵は、推理などしなくてもよいのである。殺人があれば犯人を当てるし、なくしものはすぐに見つけるし、どうして、そうなったか?を聞いても即座に答えちゃう。
ある意味、探偵という職業そのものを不要にしてしまうほど最強なのである。ゆえに、この鏡を持っている女子中学生探偵・襟音ママエの前に解決できない謎なんて皆無なのである。
しかし、どうしてそんな身も蓋もないシチュエーションが本格ミステリになるの?と疑問に思うでしょ?本書の構成がおもしろくて、最初にママエが担当する三つの事件が描かれる。謎に対して即座に真相が示されるが、その答えに至る過程は省略されている。普通のミステリでは推理によって真相へ到達するのに対し本書では真相が先に与えられ、そこへ至る推理だけが後から組み立てられる。いわば本格ミステリを逆回転させたような構造なのである。ぼくは本書を読んで「medium 霊媒探偵城塚翡翠」を思い出した。霊媒によって犯人を知り、後付けでロジックを構築するという逆回転の構図が同じではないか。だがこれは本書のほんの導入部にすぎない。本書の眼目はここにはないのだ。
本書の第二部にいたって、この「魔法の鏡」をめぐって論理の可能性をおし拡げる試みが成される。前作「キャットフード」でも活躍した三途川理(さんずのかわ ことわり)、緋山燃(ひやま もゆる)も加わり限られた設定の中での論理バトルが繰り広げられる。「魔法の鏡」の使い方という、あり得ないまったくもって非現実な存在を中心に据え、それが各登場人物たちにどのような影響を与えるのかを究極にまで考察した展開になるのである。
鏡よ鏡と問いかけ(本書では、違った問いかけなのだが)望みのものを得るあの魔法のアイテム。実際にそれを手にしたら、さて自分ならどうする?あれもできる、これもできる、いや、そんなことはしてはいけない、でもやっぱりしてしまうだろうな。そういった試みとしての可能性を探る思考が生んだミステリが本書なのだ。あり得ない設定の中で完全に機能するロジック。入り組んだ謎が解きあかされるピタゴラスイッチみたいな大掛かりな、読者に大量の情報処理を強いるタイプの本格と比べると、本書はとてもシンプルに見えるかもしれない。だが、ここで描かれるミステリロジックはシンプルかつ機能美をかね備え、なおかつ可能性をも広げている。やっていることはなかなか凄いことなんだと思うのである。本書が本格ミステリ大賞を受賞したのもむべなるかな。正当な評価だとぼくは思うのである。





