読み始めはさすがに時代のギャップを感じてなかなか入りこめなかったが、中盤からは道筋がはっきりくっきり見えてきて、先を急いで読んだ。当時としては最先端の超高層ビルに爆弾を仕掛け、爆破されたくなければ・・・という話なのだが、これが犯人側とビルのオーナー側との攻防(主に攻めの一方だけどね)になるのは当たり前として、いまから50年近くも昔に描かれたこの犯罪劇が、こんなにおもしろく読めることに驚く。そりゃあ現代の捜査や、ビルの保安管理などは雲泥の差なのだろうが、当時の最先端の状況の中で、犯人が周到に綿密に計画する犯罪のほころび一つない美しさは特筆すべきものだと思う。
そして、身代金というからにはそれの受け渡しが行われなければならないのは必定。で、本書が素晴らしいのは、このいかにして捕まらずに金をせしめるのかというトリックの完璧さなのだ。
過去にこうした身代金の受け渡しを描くミステリを何作も読んできたが、本書の受け渡し方法の斬新さはちょっと例がない。よって、この一点だけでも永遠に記憶に残るミステリだと言えるだろう。ラスト近くは、犯人がうまく逃げおおせるように願いながら、手に汗握って読んだ。計画遂行のためには殺人も辞さない非情なやつなのにである。
ラストはまことに軽くしかもユーモアさえたたえて終わるのだが、それがまたいい。すべてを完璧に計画した犯人が最後までどうなるのかとヤキモキさせるところなど、全く上手い作者だ。とても古い作品で、ちょっと納得いかないところもあるけど、とても読み応えがあっておもしろかった。追う側と逃げる側、映画にすればさぞかしサスペンスフルなものになっただろう。
泡坂妻夫「奇跡の男」
この人の本を読むの久しぶり。本書は、ノンシリーズのミステリ短編集。なんか、こう書くといかにも泡坂ファンみたいだけど、亜愛一郎シリーズと他の長編パラパラ読んでただけなんだけどね。
相変わらず、この人のロジックは普通じゃなくて、その他大勢的な脳みそのぼくではどれだけひねくり出しても無理な過程を経て解答が示される。表題作からして、宝くじの大当たりを引き当てた男が、その少し前にもバスの転落事故でただ一人生き残っていたということがわかる。しかし、神に選ばれたみたいな幸運がこんなに続くものかというところから話が広がっていくのだが、このロジックは本当、ちょっと思いつかないでしょ。逆説というか、一般の思考過程とは違った道筋を通るから思い至らないのだ。解説でも書かれているが、あの記念すべき「DL2号機事件」を思い出してしまった。
続く「キツネの香典」も普通じゃない。まさかそう考えるか!という思考過程を経て解決されるこの話は、少しやりきれなさの残る作品。
「密会の岩」は、本書の中で一番短い作品。まず、話のスタイルに妙味を感じる。独特だ。年若い女の子たちの水着姿を堪能するおじさん。すべての登場人物をニックネームで印象づけ、ああなるほどという範疇で収まるトリックが明かされる。ここでちょっと言及しておきたいのが、本書の短編のミステリとしてのスタイルの問題。それぞれ謎があって、解答があるのだが、そこにケレン味はまったくない。あまりにも呆気なく謎が解き明かされる。これはこれでなかなか味があってよろしい。というか、もともと泡坂作品にはこういった本筋以外の細部におもしろさがあるのが多くて、なんとも人柄がにじみ出てるなと思うのである。
「ナチ式健脳法」も、タイトルだけみたらナチスの?て思うでしょ?でもまったく関係ないのです。雪の足跡のトリックが描かれるが、これこそ泡坂作品でしか味わえないトリック!こんなことだれが思いつく?タイトルに集約されるところがお見事。
「妖異蛸男」もなんじゃこりゃ!ってタイトルだけど、読み終えてみればしっくりくるからおもしろい。子どもの視点で描かれる密室殺人が描かれるが、死体発見時にその子も居合わせるところなどが今のコンプライアンス重視時代には考えられないところかも。それはさておき、すべての現象が描かれて読者の前に提示されても、それをこういう風に理路整然と組み合わすことが出来る人は皆無でしょ。
というわけで、以上5編ほんと楽しめました。この人はほんと唯一無二です。
頭木弘樹 編「放課後によむ短篇集」
このひとの手掛けるアンソロジーはとても気になる。いつも感心するのが、その守備範囲の広さである。国内、海外、文豪の作品からミステリ、SF、漫画まで、いつ読んでも初めて出合う作品ばかりなのだ。たまに既読もあるけどね。しかも、本書のあとがきで知ったのだが、この人も10代の頃はほとんど本を読まなかったらしい。夏休みの読書感想文が大嫌いで唯一そのときだけ本を無理やり読むのだが、できるだけ薄い本をと選んだのがカフカ「変身」だそうで、ぼくはヘミングウェイの「老人と海」だった。20歳で難病になり病院のベッドの上で、ふとその「変身」を読み返そうと思って、文学の凄さに気づいたということで、ぼくは中3の時にエロ目的というまことに不埒な理由で山田風太郎「伊賀忍法帖」を読んでシュトルム・ウント・ドラングに突入した。なんか、シンパシー感じるんだよね。動機には目を瞑るとして.......。というわけでラインナップは以下の通り。
「待つ」 太宰治
「かくれんぼをした夜」 筒井康隆
「ウォンジュンとジョンモクが歩いていって」 パク・ソルメ
「父への手紙 抜粋」 フランツ・カフカ
「私」 谷崎潤一郎
「子供たちの晩餐」 江國香織
「100グラムの親友」 ジョー・ヒル
「水たまり」 西岸良平
「犬の生活」 小山清
「青かける青」 川上未映子
この中で既読は筒井康隆とジョー・ヒル。でもどちらもすっかり忘れていたので、再読。この中でおもしろかったのをピックアップすると、まずパク・ソルメだね。ここで描かれる出来事は劇的ではないし、特に語るべき要素があるわけでもない。でも、こういう出来事っていつまでも記憶に残っていたりする。ぼくも高校時代、放課後に友だちとなんの目的もなく10キロあまりを歩いた記憶が未だに鮮明に思い出される.確かに駄弁りながらかなり笑ったし楽しかったから記憶に残っているのだろうが、こういうのって自分で取捨選択できないよね?だから、よくわかる。自分もそうだもの。
谷崎の「私」は、あのミステリの女王の問題作と同じプロットの作品。こちらのほうが5年早く発表されているので、剽窃ではないです。しかし、ぼくはこれをさほど驚きをもって読了したわけではない。そうであれと思いながら読んだ。で、そのとおりになったので胸を撫で下ろした。なぜかこの主人公の心情はよくわかる。反発しないから、素直に読めた。それが正しいのか、正解なのかはわからない。
二度目になるジョー・ヒルは、読んでいるうちに思い出した。このあり得ない設定でこれだけ気持ちをかき乱されることに驚く。こんな気持ちになっても、また20年たてば内容があやふやになるのだろう。そういうこともひっくるめて感情の持ちようと心の浮き沈みのバランスの不可解さを噛み締めた。
初めて読む小山清の作品は、誰もが持っている慈しむ心というものを、あたかも自分の心情がそのまま吐露されたかのような感触で読ませる。犬のやさしさ、信頼が痛いほど伝わって、中勘助「銀の匙」を読んだ時のようなもどかしさを感じた。
川上未映子は、ある意味不気味な作品。儚く美しく白い掌篇でありながら、そこに内包されている世界は残酷な現実を予測させる。
やはりこの人のアンソロジーは、おもしろい。本書の対象読者は学生さんかな?でも、おじさんが読んでも読み応え充分です。
M・W・クレイヴン「ブラッディダイスの殺人 (上下)」
回を追うごとになんか軽くなるなーと思いながら、新刊出たらやっぱり読んじゃうこのシリーズ。開巻早々、不穏にも連続狙撃犯の二十一番目の犠牲者がティリーだと知らされ慄く。そこから話は巻き戻されるのだが、読者としてはティリーの安否が気に掛かってどんどん読まされる。短い章割りでその章の終わりに新たな事実がわかったり、急展開があったりと、まあテンポよく転がされる。
いつものごとく、ポーとティリーは閃きと統計を武器に真相に近づいてゆく。果たしてそこに光はあるのか?最初に提示された受け入れがたい事実はどういう結果を招くのか?
下巻に入るとページがみるみるとんでゆく。しかし、今回はいつもの終盤のどんでん畳み掛けはなかった。それが不満だと言いたいのではない。それはそれでいい。それよりも、ここへきてこのシリーズは新たな展開を迎えて軸が変わったから、それに驚いたと同時に詰めていた息が一気に抜ける弛緩を味わった。
今回の事件は、連続狙撃犯が無差別的に犯行をくり返すというものだった。正直、その動機がわかった時には『なんじゃ、それ!ちっちゃ!』と思ったし、途中の犯行で重要人物が犠牲になった場面でも、どうやってその状況から犯人が逃げおおせたのかが疑問として残ったりしたが、そういう瑕疵に目を瞑らなければならなかったとしてもストーリー自体のおもしろさは半減しない。テクニックとしての効果的な描写力に優れている作者ゆえ、まあ、見せる見せる。クリフハンガー的展開と、新たな事実が開陳される章繋ぎは定番ながらもやはりページを繰る手をとめさせない。
とりあえず、今回は杞憂なのかどうかわからないまま息を詰める時間が長かった。いったいどうなっているのだとヤキモキした。主人公への負荷は、そっくりそのまま読者への負荷となる。それはこのシリーズの宿命みたいなもので、どの話も冒頭でポーは窮地に立たされる。毎回それは巧みに回避されてきたが、本書ではそれがポーを取り巻く狭義のものではなくすべてをひっくり返すものだったので、いったいどうなってしまうのかと本当にヤキモキしたのだ。
展開的にそうなってほしいと望む方向性は、読者それぞれだけど、それが心良く裏切られるのがこのシリーズの特徴でもあり、最大の旨味でもある。もちろん、ポー、ティリー、フリン、ドイルの個性あふれる掛け合いも大いなる旨味だし、また彼らと時間を共有できるという喜びは毎回感じることだ。先にも書いたが、その軸が今回のラストで大きく変わった。もうすでになんとなくヤキモキしてるのは、ぼくだけ?はやく次巻を読んで落ち着きたい!
C・J・ボックス「熱砂の果て」
今回は、またまたネイト・ロマノウスキが前面の回である。半ば生ける伝説ともいえるこの男が謎だらけの政府の秘密組織〈ウルヴァリンズ〉の要請を受け、水面下で進行しているらしいテロ計画について探ることになる。
ジョーは、ルーロン知事から、政府の不穏な動きに関わっているらしいネイトについて探ってほしいと依頼される。また、ジョーの長女シェリダンもルームメイトの誘いで週末にキャンプに出かけることになる。
さて、どんなに鈍い人でもこの三つの出来事が一つに集約されるのはわかるとおもう。しかも舞台は二万三千平方キロのレッド・デザートという砂漠地帯、さらに不穏なのはイスラム系テロ組織が関係しているらしいから、いつもよりハラハラ度合が凄いんじゃないの?と期待する。読み終えた今も興奮さめやらぬ状態なのだが、ご安心ください。期待を軽々と越えちゃってます。
でも、このシリーズを読んでいていつも思うのが、アメリカ銃社会の怖ろしさだ。日本での感覚とはあきらかに違うし、あたりまえなのだが、生活の中に溶け込んでいる銃という武器が簡単に使われていることに恐怖を感じる。引き金を引けば誰でも撃つことができる銃が手を伸ばせば使えるという日常は、ぼくからすればまるで非現実だ。ジョーはまだおぼつかないところがあるが、ネイトにいたっては武器全般のエキスパートだ。それは、物語上とても頼もしいのだが、これが我が身の周りで現実になるとすると話は変わってくる。
でも、それがあるからこそハラハラ、ドキドキするのだから、ぼくは自分の身を安全に保ちながら危険にあふれた世界の物語を心から楽しんでいることになる。実際、若い頃アメリカで一ヶ月ホームステイしたことがあったが、ステイ先の家族に、買い物してお釣りをもらったらすぐにしまいなさいと言われたし、本屋に行ったときなど、入り口で警察官に身体検査されたから何事かと訊いたら、昨日ここに爆弾を置くと予告があったから、一応実施してると言われて驚いたこともあった。ぼくがステイしていたのはサンフランシスコだったから、銃の危険に晒されることはなかったが、これがワイオミングだったらあたりまえに銃が家にあったかもしれない。
なんてこと、つらつら思ったりもしたが、このシリーズが無類におもしろいことに変わりはない。うれしいことにまだまだ続いているので、まだまだ付き合いは続くのである。こんな幸せってある?
ルーシャス・シェパード「ジャガー・ハンター」
たぶんこの人の名前は、随分まえから知っていたのだ。あいまいな表現になっているのは、実際この人の本を読むのは、本書が初めてで処女長編の「緑の瞳」も積んだままで、作家名より本の表紙のほうが印象に残っているからだ。そういう本は数しれず、およそ命尽きるまでに読み切れるはずがないと、最近では悟りをひらいたかの心境である。
戯言はこれくらいにして、この作家は近年「竜のグリオール」関連で再浮上した。ていうか、最初のプチブレイクか。ま、古参のSF好きなら、あたりまえに知っている作家なのだろうけど。本書は、そんな彼の初期の頃の作品をまとめた短編集。収録作は以下の通り。
「ジャガー・ハンター」
「サルバドル」
「黒珊瑚」
「ぼくたちの暮らしの終わり」
「ある旅人の物語」
「メンゲレ」
「竜のグリオールに絵を描いた男」
「スペインの教訓」
一読して、特徴的なクセを感じた。ベトナム戦争、クスリ、中米。これらがブレンドされ独特の世界が構築されている。その中でひときわ異彩を放っているのが「竜のグリオールに絵を描いた男」だった。この作品だけがまるっきり異世界を舞台にしている。
順を追ってみてみよう。巻頭の表題作は中米ものの一作。妻が家電商につくったツケのせいで黒いジャガーを狩ることになったインディオの男の話。舞台設定が整ったところで悪夢が浸出してくる。
「サルバドル」も中米が舞台なのだが、こちらはベトナムを想起させるエルサルバドルでのゲリラ戦争を描いている。プラトーンみたい。
「黒珊瑚」も中米ホンデュラスを舞台にベトナム帰還兵の悪夢を描く。精霊には逆らわないほうがいい。
「ぼくたちの暮らしの終わり」は、グアテマラでの離婚寸前の夫婦の道行きが描かれる。文明と呪術の邂逅とでもいおうか。呆気なく余韻が残る。
「ある旅人の物語」もホンデュラスの島が舞台。ファースト・コンタクトでいい?でも、味わいはかなり異質。どちらかというとおどろおどろしい。
「メンゲレ」は、そのまま、あの誰でも知っているメンゲレが登場する。パラグアイの奥地で墜落した飛行運搬屋の男が助けてもらったのはマッドサイエンティストそのままのメンゲレだったという話。異形のものたちが蠢く地から落ち延びた男は、都会に帰ってからもメンゲレの魔力に囚われ続ける。自分だけが知っている事実は、世界を動かすことはできない。
「竜のグリオールに絵を描いた男」この作品だけほんと別物だ、この短編集の中では。ぼくはSFの醍醐味として、現実にはあり得ない景色を見せてくれるのを楽しみにしているのだが、ここで描かれる都市並みの巨大さという竜のイメージは素晴らしい。しかも動かなくなってかなりの時間が経過しているのに、生命の火は消えていないというのだ。竜の身体は地形となり木や草が生え、独自の生態系が成立し人もそこで暮らしていたりするのである。そんな世界で描かれる運命の物語。この作者独特の泥臭さの中にある真珠のような輝きが感じられる。
「スペインの教訓」作者シェパードは、若い頃ドロップアウトしてヨーロッパあたりを放浪していたらしい。その時の体験をもとに書かれたのがこの短編。といってもそこには現実を侵蝕してくるあちらの世界が顔をのぞかせ、オカルトの鼻薬が効いているものだから、強烈なイメージにクラクラする。いたぶられる感覚とでもいおうか。
色々ととっかかりにくい傾向にはあるが、入ってしまえば空気が馴染んでそこを楽しむことができる。そういう未知のものに対する反発と少しの不安を克服するのに最適な作品集。なかなか接し難いんだけど読んでよかったと思えた。
スティーヴン・キング「コロラド・キッド 他二篇」
中編三作収録。巻頭の「浮かびゆく男」は、体つきはそのままで、体重がどんどん減ってゆく男の話。「痩せゆく男」という長編と似た話なのかと思っていると、あちらがジプシーの呪いで、どんどん痩せ細ってゆく恐怖を描いているのに対して、本作は体重だけがどんどん減ってゆく。言い換えれば、重力から解放されるのだ。だから外見は太った中年男性のまま、服を着てても、10キロの鉄アレイを持っていても、体重だけが日に日に減ってゆくのである。「痩せゆく男」は、かのヘレン・カーペンターのように病的なまでにガリガリになって骨と皮みたいになっていったのに、本作は、そういった悲惨さは皆無なのだ。だから読んでいてすごく快い。でも、メイン州の片田舎キャッスルロック(!)で差別に遭う同性婚のカップルが絡んできたりして、物語は厚みを増してゆく。そこへ、この重力から解放された男がどう関係してゆくのか?やはりキング天性のストーリー・テラーだからもう吸い込まれるように読みましたとも。読み心地はすごくいいけどラストにはやはり別れがある。ひょっとして、マルケス「百年の孤独」の小町娘レメディオスもこれと同じだった?
二編目の「コロラド・キッド」は、長らく読めなかった作品。名のみ知るってやつね。新潮文庫の「ダーク・タワー」が刊行された際というから、もう二十年くらい前かな?第I部から第Ⅲ部まで購入した人だけが読める購入特典として一万人限定で懸賞配布されていたものだ。ダーク・タワーのシリーズは、当時キングが生きている間に完結しないかもしれないなんて言われていたので、まったく読む気がなく、まして当初は角川から刊行されていたのに急に新潮文庫にかわったりして、面倒くさくなっちゃったんだよね。それはともかく、この「コロラド・キッド」そのうち読めるようになるだろうと思ってたけど、まさか二十年もかかるとは!内容はといえば、過去に起きた一見単純な事件を当事者の老人二人とそれを初めて知る若者の三人で再び考察するという話。この老人たちがクセ者で、たった二人の地方紙編集員として現役なのだが、頭がいい上にユーモアを至上と心得ている洒落者なもんだから、インターンシップとしてこの新聞社にきている大学院生のステファニーが、聞き役として開陳される昔話に前のめりになって聞き入っているというシチュエーションが、読者としてはそんなに引き込まれないのだ。老人二人の掛け合いがステファニー(二人はステッフィと呼んでるけどね)の頭の良さを確認しながら、したり顔でうなづきあったりするもんだから、なんか白けるんだよね。
「ライディング・ザ・ブレット」は、2000年に単行本で刊行されたとき、買って読んでいたのだが、この機会に再読。小粒ながらけっこうおもしろかった印象が残っていたけど詳細は忘れてました。いま読むと、当時感じたようなゾクゾク感は薄れており、これも歳をとることの弊害かと思った。結局のところこの話って、恐怖をモチーフに母と子の二人っきりの関係性の中に浮上する愛と絆を高らかに歌い上げているようにみせて、本質の部分ではやはり自分が一番という認めたくない現実を突きつけてくる意地悪さがある。でもそこがキングなのだ。
というわけで、やっぱりなんだかんだ言ってても結局読まされちゃうんだよね、キングって。







