太平な江戸の旗本を目指す若き御家人片岡直人。御家人から旗本に出世するためには御目見以上のお役目に就かなければならない。しかしそれが一度だけなら、旗本の資格は子に継がせられない。代々旗本と認められる永々御目見以上の家になるには、少なくとも二つのお役目に就く必要がある。これが叶わなければ、その家は一代御目見の半席となる。
なんじゃそりゃ。もう、そういう馴染めない名称続出で話が入ってこないのです。番方、小十人入り、小普請組、徒目付、腰物奉行、納戸組頭、一季奉公。なんか時代小説読んでいままでそれほど理解に苦しむことはなかったが、本書のいわゆる武家物としての役名や役割を理解する煩わしさが毎回あって、少しノレなかった。
しかも、この連作短編はすべてミステリ仕立てで話が構成されているのだが、それもあまりピンとこなかった。すべてにおいて謎の焦点はWhyであり、巻頭の「半席」では、筏で釣りをしていた年老いた侍が、なぜいきなり走りだして水中に没したのか?という謎が描かれ、二話では八十歳以上で公儀御役目に就いている旗本の寄合で刃傷に及んだ老侍は、なぜ水菓子として出された真桑瓜を見て豹変したのかという謎が描かれる。
そういった一見理解不可能な事件の真相を片岡直人が解明してゆくという趣向だ。しかし、その真相は理解できるがあまりピンとこない。腑に落ちないというわけではない。ちゃんと着地しているのだが、受け入れが整わない。答えを聞けば理屈は通るのだが、なるほどそういうことかという快感には至らなかった。
当初は半席という境遇から抜け出そうと必死に邁進する直人だったが、人と人との関わりの中でいままで関心をもってなかった営みの中にあるそれぞれの思惑に思い至る機会が増えたことによって、視野が開けあらたな物の見方を養っていく姿には好感をもった。でも、そういう大まかな話の流れの中で、先に書いた役名や役割の名称などが頻出し、なおかつ各話毎に同じ説明が繰り返されることによって、そういうことがストレートに入ってこないから、そこが不満として残った。世間一般としては本書の評価はすごくいいので、これはあくまでも個人的な感想なのである。直人が自分に正直であろうとしたように、ぼくも忖度や嘘の感想は書けないのであります。
ジェフリー・ブラウン「STAR WARS マンダロリアンとグローグー」
この二人の関係性を知らずに映画「スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー」を観て、ヨーダみたいな小さい生き物が、言葉を話さない赤ん坊に毛の生えたような存在にも関わらず、なかなかの活躍をみせるのを楽しんだ。位置づけとしては、グローグーって旧三部作のR2-D2みたいなもんだよね。でも、マンダロリアンとグローグーの関係は親と子として投影されていて、本来なら子は親の庇護のもとさまざまな問題を解決して成長していくものなのだが、グローグー自身フォースの遣い手でもあるから、完全な被庇護者にはならないところが旨味となって笑わせてくれる。完璧な幼児性と一目置かざるを得ない力の共存がグローグーの存在を唯一無二のものにしているのだ。
で、この絵本そんな彼らの関係性をさまざまな場面で切り取って見せてくれる。ぼくはこれを読んで遠い昔を懐かしく思い出した。儘ならぬ子育ての難解さ。物の道理を解く自分にその資格はあるのか?と思いながら説明するジレンマ。正しいことと、それを押し通す勇気を再確認しながら目を見て話す緊張、自分の感情のやり場をコントロールする術を習得する喜び、子どもが答えを捻り出そうとする姿をみる感動。ああだった、こうだったと自分の中だけで完結していた色んな思い出が本書の絵と重なり合うようによみがえってきた。
いやいや、それはないない。だってスター・ウォーズの世界だよ?重なるわけないじゃん。でも、そのシチュエーションにはかなり刺激を受けて、思い出があふれてきた。これは、大人が、親が読むべき絵本なんだろうね。ピュアな子どもの悪意なき落とし穴がそこかしこに口を開け、気の休まるときがないのに満たされていて、自分のことよりその小さな命のことを大事に一番に考える。その幸せと喜びが溢れた絵本なのだ。
味のある絵と共に、スター・ウォーズファンのお父さんお母さん、この絵本を読まない手はありませんよ。振り返って、あの輝いた日々を!
荒山徹「サラン・故郷忘じたく候」

6編収録。すべて文禄・慶長の役を題材にした短篇ばかりであり、この秀吉最大の愚行に対して、当時の主に朝鮮側の人々(といっても日本人が主役の話が多いのだが)を描いた作品集だ。
「耳塚賦」
「何処か是れ他郷」
「巾車録」
「故郷忘じたく候」
「匠の風、翔ける」
「サラン 哀しみを越えて」
しかし、ぼくはこの日本の朝鮮進攻の実態を知らなかった。これらの短編を読んで少し考えをあらためた。まず、朝鮮側の両班と奴婢の関係性について未知だった。実情を知れば見えかたは自ずと変わる。朝鮮社会の一部には、日本軍を歓迎・協力した人々さえもいたというのだ。
描かれようによっては、印象も変わる。見る角度によって鬼にも神にも変わる。地獄にも天国にも変わる。一概に物事を決めつけてはいけないなと思った。
日本から朝鮮に帰化する者。その逆もあり、自分の立場や因縁、出自や経験、いろんな要素がからまってそれぞれの運命を変えてゆく。この中で一番印象深いのはやはりラストの「サラン〜」だ。山田風太郎をリスペクトする作者の山田作品へのオマージュが詰まった作品だ。冒頭の二行は「魔界転生」そのもの。ラストまで読めばあの人が登場するというサプライズまであって、感慨深い。ところで、ここに出てくるお品は、「魔界転生」のあのお品だよね?
話的には、グイグイ読ませる作品は少なかったが、朝鮮侵攻の見方が変わった。読んでよかった。
ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」
どうも知識が不足していて、ヴァージニア・ウルフといえば、ジョイスと並ぶ『意識の流れ』を小説で著した作家だと勝手に認識していたが、実際この二人の作品を読みくらべてみると、その差異は歴然としている。ジョイスは、個人の内面の意識の流れを奔流として描き出したのに対し、ウルフは、その場にいる幾人もの人物の内面を行き来しながら、互いの存在によって少しずつ感情や認識が変化していく様子を途切れることなく描いている。そうすることによって、読み手は今語っているのが誰なのかという大前提から解き放たれ、知らぬ間に、あの人、この人へと視点を移されてしまう。描かれていることは、誰もが日常で無意識に行なっていることで、そうした日常を複数の人物の意識を行き来しながら描くことで、ときおり誰の意識なのか考えさせられることもあるが、その移り変わりは驚くほど自然だ。
話は動かない。それがこの物語の最大の特徴。ある家族のとある一日が本書の大半を占めるが、その中で時間は確実に流れているのに、物語が前進していく感覚がほとんどない。これって、凄いことだと思う。読むほうは受け手であるがゆえ、字面を追っていけば自然とページが進んでいくが、登場人物の心理だけで読者を惹きつけ続ける構成は、筋書きで引っ張る小説とはまったく異なる技術が要求されると思うのである。
そして、この小説が発表されてもう百年になろうとしているのに、いま読んでさえ新鮮な驚きにみちている一因として、その構成の妙があるといえる。第一部では、ラムジー家をとりまくとある一日の出来事を心象風景を中心に二百ページ以上を費やし描くのに対し、第二部では、それからの十年あまりをたった三十ページで描くのである。賑やかだったあの家がずっと放置されみるみる風化してゆき、尚且つ、一部で親しんだラムジー家の主要人物たちの死でさえ、それぞれ一、二行の括弧書きで済ませてしまうという大胆な構成には驚く。そして第三部でその後のとある一日をまた百ページほどかけて描くのである。
翻弄と驚嘆が交互にやってくる。それは大胆である上に緻密さも併せもつ素晴らしい表現だ。試みが完璧に読者を呑み込んで、読んでいるうちにウルフが何を目指してこの小説を書いたのかが少しずつ理解され、その発見が読み手にダイレクトに驚きと興奮をもたらす。第三部では、ラムジーが子たちを連れて灯台へとむかう過程と客人であるリリー・ブリスコウが絵を完成させる過程が交互に描かれ、それらが同時に完遂するところで終わる。いままでさんざん弄んできた作者が、ここで居住いを正して正装して最後の挨拶をしたみたいな完成された演出を感じた。そこにある完成美を全身で感じとった。
ヴァージニア・ウルフの作品に接するのは初めてだったが、なんでもない日常を描きながら(途中、大戦があったりはしたけど)これほどの驚きをも与えてくれたことに感服。素晴らしい体験だった。
アンソニー・ドーア「天空の都の物語」
とんでもない話だ。まったく関係のない時代と場所のそれぞれ三つの物語が交互に語られる。でも、そこに混乱はない。このチカチーロ似の素敵な作者は、それぞれの物語を強烈な吸引力で引っ張ってゆくのである。
舞台となるのは、遠い未来の宇宙船、18世紀のコンスタンチノープル、現代のアメリカのとある図書館。先にも書いたとおり物語は重層的に語られる。読者はそれぞれの時代と場所にいきなり抛りこまれるが、そこで描かれる生きた登場人物たちと共にそれぞれの物語をなぞってゆく。それは、晴れた日に真っ青な海に飛び込んでゆく爽快感と暗い洞窟をライトを手に恐る恐る進んでゆく緊張感とこの先に何が待っているのかわからない期待などがごっちゃに合わさったようなワクワクする体験だ。
臆することはない。多くの読者はここに遊び、知ることの勇気と喜びを体験するだろう。ぼくは、本書を継続して読まないようにした。これは個人的な感覚なのだが、本というものは、開く回数が多いほど身体の中に染みつき記憶に残るものだと思うのである。これは、一人の人間を理解してゆく過程と似ている。誰でも初めて会う人には、心は開けないと思う。その人と何度も会って同じ時を過ごし人となりを受け入れる。本も同じ。本を開く行為は人と会うのと同じ。そしてその度にリセットされた気持ちがその本を受け入れる準備をし、徐々に理解してゆくのである。どうしても、面白すぎて先が気になり一気に読んでしまう本は、楽しい時間は過ごせるけど自分の中に留まらない。すぐ忘れてしまう。だけど、こうやって少しづつ読む本は、記憶の襞に様々な場面が残るのである。
そうやって読んでいたが、思わぬことにこの物語は失速するのである。三つのまったく違う世界の物語。それぞれが緊張と緩和を繰り返して進んでゆく。それぞれをつなぐディオゲネスの「天空の都の物語」。本来なら、これらの要素が緊密に相乗効果を生み、物語全体を盛り上げてゆくはずなのに、構成の巧みさは理解できても、最後まで心を揺さぶられることはなかった。いままで読んできた彼の傑作群で味わったような発見や美しさ、そして豊饒さは、本書からはあまり感じられなかった。最新作だけに、少し残念な思いが残った。いままでの作品が素晴らしすぎたのか。次の作品に期待したい。
東 雅夫 編「稲生モノノケ大全 陽之巻」
稲生物怪録はまさしく都市伝説のはしりのような話で本筋は詳らかにされているが、その伝わり方が諸説あって定かではない。怪異そのものを体験した本人の話、その同僚の話、国学者がまとめた話、それ以降も名だたる作家たちがこの物怪録を小説、戲曲、紀行などに描きなおしてきた。それらと原典をまとめたのが本書より先に刊行された「稲生モノノケ大全 陰之巻」であり、本書は現代の作家たちが新たな視点で語りなおした稲生物怪録なのである。ラインナップは以下のとおり。
旧耳袋 もう臭わない 京極夏彦
逆しま屋敷 菊地秀行
異本 長島棋子
文月問答 加門七海
釣りぎつね 越水利江子
SRP 小林泰三
砂浜怪談 牧野修
逢魔の夏 福澤徹三
夢三十夜 津原泰水
平気の平太郎 魔王の館の巻 寮美千子
菩提町日記 佐藤弓生
クリスタルジーレナー 秋里光彦
魔王 ―遠い日の童話劇風に 皆川博子
音迷宮 石神茉莉
生者・死者・物怪 松本楽志
妖鼓変 戸隠珠子
七月の客《まろうど》 サカジリミズホ
三次もののけ殺人事件 ひらさとひよこ
風流化物屋敷 山本周五郎
有名作家ばかりの中に知らない名前が何人かあると思うが、皆川大先生から山本大先生までの間の五名は一般公募の入選作品なのだそう。
ここで稲生物怪録なるものがどういうものなのか、ざっと紹介すると江戸中期、備後に実在した稲生平太郎という16歳の少年が隣家の権八という相撲取りと肝試しをしたことをきっかけに一カ月もの間、毎日奇怪な現象に遭うことになった。しかし平太郎は常人なら恐れおののくそれらの現象にも屈せず、最後まで逃げ出さなかったので、月の終わりに物の怪の魔王である山本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)が現れ「今後、魔王神野悪五郎が現れたならば、これを使えば、我加勢す」と槌を渡し、眷属を引き連れ去っていったというもの。驚くことに、現在でも広島に稲生平太郎の子孫が在住しているらしい。
以上のことをふまえて本書に収録されている短篇を読んでみると、あの手この手でこの希代の怪異物語が料理されていて楽しい。特別これがすごい!っていう作品はなかったけど、十人十色それぞれの料理の仕方があって飽きさせない。こうくるか、そうくるか!と驚き楽しみ読んでいった。特に印象に残ったのは菊地秀行と皆川博子。前者はあの幽剣抄のシリーズを彷彿とさせる化物屋敷物で、手堅い印象だし、後者は、この題材をこんなに大胆に変えちゃう?と驚いた。だって、オーディンですよ?有翼蒼狼ですよ?いったいいつまでこの作家に驚かされることか。
二百年以上語り継がれてきた怪異が、こうやっていまも新たな物語を生み出しているという事実にあらためて驚く。泉鏡花「草迷宮」くらいが打ち止めかなって感じなのに、こういうのってくり返され語り継がれていくんだろうね。
松本清張「浮游昆虫」

清張の短編集の中では、あまり見かけない本だ。収録作は以下のとおり。
「浮游昆虫」
「閉鎖」
「皿倉学説」
「相模国愛甲郡中津村」
「振幅」
それぞれ様々な趣向が凝らしてあって、安定のおもしろさだった。表題作は、戦後の混乱期に大学建設用地を格安で手に入れるという目覚ましい活躍を認められ一介の講師から理事にまで抜擢された野心に燃える男の画策を描く。手回しと周到な罠で邪魔者を除外せんとする彼の前に立ちはだかる敵。落とし落とされの駆け引きがサスペンスフルに描かれる。
「閉鎖」は書簡で書きすすめられるミステリ。田舎の百姓がふっつりと消息を絶つ。当時としては大金の二百万を用立てた帰りの出来事である。真面目な性格で、唯一酒を飲むことだけが楽しみだった男。物取りの犯行だと見当がつけられ捜査が進められるが、そこには驚くべき真相が。
「皿倉学説」は、なんとも魅力的な話で、いまは落ちぶれて教え子たちのお情けで大学に名誉教授として籍をおく主人公のお話。本妻とは別居し、妾の狭い家で暮らしているこの名ばかりの教授は週に一回たいした仕事もないのに大学に通う生活を続けている。そんなある日、彼は弟子の一人から茶飲み話のついでに医学雑誌に掲載された奇妙な論文の話を聞く。推定でしかなかった聴覚機構の脳内での役割に関するとある説を、猿を実験台にして検証したというのだが、猿と人間では脳の細胞からして異質なので、その検証は空想の域をでないものになってしまう。しかし、このお笑いぐさのトンデモ学説に妙な魅力を感じた主人公は、これを唱えている四国の市立病院の内科部長の皿倉という男のことを密かに調べる。
こんなふうに始まるこの短編、事件もなにも起こらないのに、グイグイ読ませる。主人公の落ちぶれた現在の境遇と、それでもなお生理学者としての鋭い直観を失っていない姿が交錯し、どんどんページを繰らせる。
「相模国〜」も、明治初期に起こった贋札事件について神田の古本屋で出会った好事家とのやりとりから、世間一般で知られているのとは違う真相が浮上してくるという話。この短編も「皿倉学説」もいわば知的好奇心の話であり、物語の主人公たちが感じる新たな発見の興奮が読み手にも伝わってくるところが魅力だ。しかもこの二作どちらもラストは不穏に終わる。まったく心憎い仕上がりなのである。
「振幅」も、派手な仕掛けや展開があるわけではない作品なのに、とても印象的。ラストの澄んだ金属の音がいつまでも耳に残る。
というわけで、すっかり堪能。読むほどに清張の魅力にどっぷりハマっていく。わるいやつらばかりではなく、こういった純粋な知的興奮や歴史のロマンをも掌中のものにしてしまう彼の魅力が横溢している短編集だった。




