読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ダン・ブラウン「ロスト・シンボル(上・中・下)

ロスト・シンボル 全3冊セット

 

 ここで語られる謎は、人類が大きく変化する真実だ。この謎が解き明かされれば、明日からの未来が劇的に変化する。大上段だ。いったい、どんな真実が待ち構えているのかとドキドキする。

 その謎に深く関わっているのがフリーメイソン。よくは知らないが、ぼく的になんとなく秘密結社みたいな深遠な陰謀を内包しているように勝手に解釈している。

 また同時に時代を創った偉人たちがそのメンバーだったということも拙い知識で知っていた。要するに、本当の部分は何も知らないということだ。

 今回、ラングドン教授はまたいつものごとく巻き込まれる。前2作以上にわけがわからない状況に放り込まれ、途中途中少しは役に立つが、最後までというか最後に至っても事の真相に明晰な解を与えない。なんとなく不承不承了解し、ま、そういうこともあるわな、とポジティブに考え終了する。しかも、この3巻に及ぶ文庫を読み終えて、作中時間はたった一晩の出来事なのだ。

 ちょっと、そういう部分が不満点として残った。こちらの労力と釣り合ってないような感覚をもってしまった。しかし、真相が不発みたいに書いているが、そんなことはない。確かに前2作に比べれば見劣りしてしまうが、ここで開陳される真相は、それが本当ならば確かに希望に満ちている。

 常々ぼくは、この世界を取り巻く未知のネットワークみたいなものの存在を感じていた。こう書けばオカルトめいて感じるかもしれないが、確かに見えざる力というものは存在する。それは我が身に起こったとしても、偶然として処理されたり、あ、ラッキーといって見過ごされたりしているだけで、実際はそういう力が働いているのではないかと思うのだ。

 すごく急いでいる時に信号が全部青だった。失敗したと悔やんでいたことが、結果オーライだった。本当に欲しいと願って引いたクジが当たった。どれも小さなラッキーであり、偶然で処理できる出来事だ。だが、それが本当は見えざる力によってもたらされたものだったとしたら?

 本書は、そんな望みが本当かもしれないと思わせてくれる希望に満ちている。

 

都会「箱の男」

箱の男 (コドモエCOMICS)

 

 いったいどういうことなの?と思う。箱に入っている男だと!で、開巻早々、箱に入 った男の死体が発見されたというニュース。そこから過去に遡っていくのはよくあることで、読み手としてはいったいどういう驚きで楽しませてくれるのだろうと期待する。

 

 現実からかけ離れた日常。箱の中から出てこない父親。小さな穴だけが開いていて、そこから食べ物や排泄物を出し入れしているという。幼い子どもは、その光景が異常だと思っていない。なぜなら物心ついた頃から、この状態が当たり前だったから。 しかし、長じるにつれて自分の家庭が異常だということを認識しはじめる。一生箱から出てこない親。心の病いだという。友だちも家に呼べず、潜める日常をそれでもささやかな幸せと共に過ごす三人。

 

 しかし、所々気になる描写が挟まれる。引っかかりを残したまま、吸引力に負けてどんどんページを繰る。 やがて明かされる驚きの真相。こんなことになっていたのか!もちろん完璧な構築とはいわない。しかし疑義を挟む箇所があったとしても、それを瑕疵だと感じさせない驚きが勝る。

 

 どちらかといえば、描きこまれていないシンプルな線の軽いタッチの絵だから、ストレスなくすんなり没頭できるし、途中はユーモアさえ感じさせてくれる。だから、余計にゾクゾクが引き立つ。最後の最後までそのゾクゾクは継続する。上手いなあ。感心しちゃいました。

栗田有起「マルコの夢」

マルコの夢 (集英社文庫)

  シメジとエリンギを油をひかずに焦げ目がつくまで炒めて、それをミキサーにほりこみ、生クリームとミキシングしたものに塩で味付けし、ニンニクオイルで炒めたパスタと混ぜ、茹で汁加えてトロみをつけたらキノコクリームパスタの出来上がり。

 これが絶品です。キノコの旨味大好き。だから本書に出てくるマルコというキノコの料理を食べてみたくって。その料理の名前が「マルコ・ポーロの山隠れ」というのだが、だれもこれに使われるキノコの名称を知らないのだ。だから俗称としてマルコと呼んでいる。
 誰もが一度食べると虜になってしまうというこの料理。料理評論家でさえもその味わいを具体的に表現できないでいる。そんなキノコをめぐるお話なのだ。

 主人公の奥村一馬は大学卒業にむけて就職活動をしているが、どこからも内定をもらえず身の振り方で悩んでいた。そんな時にタイミングよく結婚してパリに行っている姉から食材の輸入会社の仕事を手伝って欲しいと連絡が入る。そこで、出入りすることになった三つ星レストラン「ル・コント・ブルー」のオーナーにみそめられキノコ担当係なるものに抜擢される。

 どだいはなっから本書はちょっと現実離れしていた。レストランの同僚のひとりは、どんなにメガネを新調してもレンズにヒビを入れるし、もうひとりは綺麗な女性を見かけるとサインを求める。求めて終わり。どゆこと?

 やがて、ただの希少なキノコの話かと思っていると、どんどん奇妙なほうにズレこんでゆく。キノコが立ちはだかり、キノコに取り込まれてゆく。変な話だ。教訓めいたところもないし、身につまされることもない。示唆に富んでいるわけでもないし、感動を与えてくれるわけでもない。でも読んでいて心地いい。まえに読んだ「オテル モル」もわけのわからない話なのに妙に心地良かった。なんか波長が合うのかな。途中、主人公の一馬が日本に帰ってきておそろしい喉の渇きにおそわれる場面がある。まったくワケがわからない。唐突に始まり、「ぼぼ僕の、コココーヒーを」で唐突に終わる。こういうところも好き。わけわからんし、あんたら勝手に考えんね!と突き放されてる感もいい。結局、キノコとリンクしていたのかと解釈するけど、それが正解かどうかもわからない。こういうことって、不思議だけどあるかもしれんなと自分を納得させて、昔に読んだ手塚治虫のブラック・ジャックのあるエピソードを唐突に思い出したりする。 

 うろ覚えだが、海外から帰国する際に可愛がっていた鉢植えのサボテンをおいていったが、離れたくないサボテンが寄生していたという話。手術で開腹すると心臓の横に寄生していたんじゃなかったかな。ブラック・ジャックはかなり読んでいたが、この話だけ妙に記憶に残っている。同じように、スペクトルマンでアルジャーノン化した男(チンパンジー?)が生肉食べている場面だけを覚えていたりする。よほど衝撃的だったのか。  

 それた。結局この作者はぼくに合ってるってことでいいね。

山本昌代「デンデラ野」

デンデラ野 (新潮文庫 や 40-1)

  まえに読んだ「善知鳥」の時も驚いたが本書も衝撃の短篇集だった。収録されている三作すべて現代が舞台であり、それぞれ普遍的な家族の在りようを描いている。巻頭の「豚神祀り(とんじんまつり)」は、妻が失踪してしまった豆腐屋の親父が主人公。中学生の男の子、小学生の女の子の二人の子がいるのだが、兄は引きこもり、妹は小児ヒステリーと、母がいなくなってしまってから様子がおかしい。表題作は、団地に住むおばあちゃんが主人公。息子夫婦と二十六歳の孫娘、十九歳の孫息子と一緒に住んでいる。このおばあさん肩身の狭い思いをしながらも案外強く生きている。ボケているわけでもなく、身体も健康そのもの。周りにいる老人たちはみな惚けているのに。ラストの「春のたより」では二十六階建ての超高層団地に住む郵便局長の一家が描かれる。この作品はタイトルからも、描かれている内容からも一番すんなり終わりそうなのに、そうはならない。どうしても想像は悪いほうへ向かってしまう。

 さて、簡単に各編の状況設定のみを抽出したが、こうした一見どこにでもありそうな(巻頭作だけ、少し特殊だけど)家族の間でいったい何が起こるのか?詳細は語らない、興を削ぐからね。だから、もし本書を読むことがあれば、解説も先に読まないほうがいい。三枝和子さん結構バラしちゃってるから。ぼくは、巻頭作など三回くらった。驚いた。なかなかの衝撃だった。その他の作品もちょっと目が離せない展開だった。表題作など、おばあちゃんの日常が結構おかしくてユーモアさえ感じていたのに、不穏なものは常に背後にちらついていた。

 人間の持つ底知れない心の動きや、家族と言えども理解できない行動基準みたいなものが所々に顔をのぞかせる。きっかけが明確でないから、読者としてもすべて憶測で判断しなければならない。それが理解を妨げているとか言うのではない。実際、家族の間でも腹を割って話さなければ行動や考え方の根本がわからないことは多い。だから、読み手の方でもある程度の理解をしながら読み進めるのだが、結局その方向性が違って、予測はことごとくかわされる。ラストも結果が描かれていない。悪いほうに考えなければいいだけなのに、どうしても最悪の結果を想像させてしまう。

 読みやすく、ユーモアさえ感じるのに、終わってみれば傷だらけになっていた。でも、それは間違いではなくどう足掻いても正解なのだ。

絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」

イッツオンリートーク 文春文庫 絲山秋子著

  それぞれの生活の中で、各々の決まったルールがあり、独自の解釈とTPOに合わせた判断で逸脱しない日常が保たれる。それを生活と呼び、日々はその繰り返しに過ぎない.だとしたら、そんな日常の営みを描く話のどこが面白いのかと思うが、これがおもしろい。そんなこと本読みならみんなわかっていることなのだが、あらためてそういう機微を感じとり、噛み締めたというわけ。

 本書には表題作と「第七障害」の二篇が収録されている。どちらも三十前後の独身女性が主人公だ。骨組みが同じでもそれぞれの短篇から受ける印象は違う。どちらの女性も何かから逃げだしているという共通点まであるにも関わらずにだ。

 表題作の優子は、かつて新聞社に勤めローマ支局に赴任していたエリートだったが躁鬱で退社し、いまは絵を描いて暮らしている。その絵も過去に賞をとった時にちょっと売れたぐらいで、貯金を崩して生活しているのが実情。この優子、典型的ないダメンズフリークで、関わる男たちの悉くがちょっとおかしい。しかも彼女、他者との距離感が異常に近く、すぐ身体を許してしまう。中には、この人とは無いなと本能的に嗅ぎ分けたりもするんだけどね。

 「第七障害」は、乗馬の障害レースで転倒し馬は安楽死、自身も腕の骨を折るという過去の出来事に束縛され続ける順子が主人公。彼女は馬を殺してしまったと自分を責め、それまでの生活を捨て群馬から東京に移り住む。そこで描かれるのは彼女の心の傷の浄化だ。微妙な人間関係は追いつめ癒され彼女を鍛えてゆく。

 喜びと悲しみどちらが多いかは読む側の心の持ちようで変わってくる。ぎこちなさを乗り越えて奔放とさえ映る優子。過去の出来事にとらわれ拠り所を無意識に探している順子。似て非なる者たち。それぞれの人生はこうして切り取られた場面を残して進んでゆく。順子のほうが希望のあるラストだったけどね。最初にそれぞれの短篇から受ける印象が違うと書いたが、曇りと晴れの違いみたいなものだ。豚汁とあさり汁みたいなものだ。許しと癒しみたいなものだ。過ぎ去ってしまえば、すべて同じなのかもしれない。

 最後に絲山氏の描くダメ男たちがあまりにも無邪気で無害なところが可笑しい。彼らなりに一本通った筋があるのに、不器用ゆえにそれがうまく作用せず、どうしょうもない印象を与えてしまう。でも、そのことを悩んだりもがいたり、後悔したりしないのだ。世の男って、基本似たり寄ったりじゃない?

イーディス・ウォートン「歓楽の家」

歓楽の家

 

  本書より後に新訳が刊行されたが、ぼくは本書の訳のほうがしっくりきた。こういうのってフィーリングだもんね。イーディス・ウォートンは、「幽霊」を読んで、とても精巧で思慮深く構成されたゴースト・ストーリーだなと感心してから注目した作家だ。しかし、本書は20世紀初頭のニューヨークの社交界を描いた作品で、正直読み始めはいつもの的確でありながらストレートには描かないウォートンらしい技巧も感じられず、あまり興がのらなかった。

 主人公であるリリー・バートは、誰もが振り向くような美貌に恵まれながらも、婚期を逸しかけている29歳の女性。家に財産もなく、この境遇から抜け出すには良い夫とめぐりあうしかない。だから彼女は上流階級のうわべを繕う虚飾の中で財産に恵まれた素敵な伴侶をつかみ取るために自分の価値を最大限に売り込む努力をする。だからといって彼女が贅沢に溺れる中身のない社交界の人々と同類だと思うのは早計だ。彼女は苦悶する。贅沢して美しいものに囲まれる生活には憧れる。だが、彼女の中には誠実で回りのスノッブたちとは相容れない己を律する自尊心もあるのだ。

 本書の眼目はこの時代の社交界の光と影である。一見華やかで、誰もが憧れる上流階級の暮らしだが、そこでは常に誰かが誰かを蹴落とそうとし、真の笑顔は他人の不幸でしか得られないとさえ思えるほど。そんな、目まぐるしい緊張と弛緩の中で、リリーは幸せをつかもうと奮闘する。

 世の常として、求めすぎては身を滅ぼす。リリーが求めすぎているというのではない。彼女の俗物にまみれた社交界での立ち位置が自然とその結果を招いてしまうのである。誠実であろうとし、しかし清廉なだけでは生き残れない世界でリリーは次第に落ちてゆく。悲しい結末が回避されることはなく、外に身をおく読者としては、ほろ苦く胸を焦がしながら本を閉じることになる。でも、リリーに共感する女性は多いのではないだろうか。求めるものと、自分の立ち位置のギャップは誰もが経験することであり、そこにある苦悩を解消する答えはなかなかでない。女性であることの生き辛さが男性のぼくでも感じられて息苦しい。

 あれほどゴースト・ストーリーでの不安定さや真相を欠く描写という技巧にうならされたウォートンだったが、それが長編ではさほど光っていなかった。それでも、多くの登場人物の描き分けであの手この手の術策、親切さの裏に隠された残酷さなどを浮き彫りにする構成はなかなか素晴らしく、そういった意味では彼女の出世作となったという評判もわからないでもない。

 だが、個人的にはいまのところ、彼女の作品で好きなのは短篇のほうだ。もう一作くらい長編を読まなくてはいけないとも思うのだが。

リチャード・ジェサップ「 摩天楼の身代金」

摩天楼の身代金 (文春文庫 275-7)

  読み始めはさすがに時代のギャップを感じてなかなか入りこめなかったが、中盤からは道筋がはっきりくっきり見えてきて、先を急いで読んだ。当時としては最先端の超高層ビルに爆弾を仕掛け、爆破されたくなければ・・・という話なのだが、これが犯人側とビルのオーナー側との攻防(主に攻めの一方だけどね)になるのは当たり前として、いまから50年近くも昔に描かれたこの犯罪劇が、こんなにおもしろく読めることに驚く。そりゃあ現代の捜査や、ビルの保安管理などは雲泥の差なのだろうが、当時の最先端の状況の中で、犯人が周到に綿密に計画する犯罪のほころび一つない美しさは特筆すべきものだと思う。
そして、身代金というからにはそれの受け渡しが行われなければならないのは必定。で、本書が素晴らしいのは、このいかにして捕まらずに金をせしめるのかというトリックの完璧さなのだ。

 過去にこうした身代金の受け渡しを描くミステリを何作も読んできたが、本書の受け渡し方法の斬新さはちょっと例がない。よって、この一点だけでも永遠に記憶に残るミステリだと言えるだろう。ラスト近くは、犯人がうまく逃げおおせるように願いながら、手に汗握って読んだ。計画遂行のためには殺人も辞さない非情なやつなのにである。

 ラストはまことに軽くしかもユーモアさえたたえて終わるのだが、それがまたいい。すべてを完璧に計画した犯人が最後までどうなるのかとヤキモキさせるところなど、全く上手い作者だ。とても古い作品で、ちょっと納得いかないところもあるけど、とても読み応えがあっておもしろかった。追う側と逃げる側、映画にすればさぞかしサスペンスフルなものになっただろう。