なにこれ?凄いよ昭和が煮詰まってるよ。昭和に起きたさまざまな事件、出来事がほとんど途切れることなく描かれてゆく。ストーリーはあって、ないのごとし。それぞれの事柄が連想のように続いてゆく。同時代を生きた身としては、それらはしっかりと記憶に残っている事柄であり、彼方におしやられていたそれらの記憶が次々とよみがえるという、あまりしたことのない読書経験をした。
おそらく作者は昭和という時代の匂い、雰囲気、感触などを伝えたかったのではないだろうか。それらは、一つ一つの事柄については詳細な記述のある研究書もしくは記録として残されているのだが、それらを総合的に、時にはディテールをなぞって連綿と書き綴ることによって、そこに流れていた時間や人々の思惑、言動などを浮かび上がらせ読者の目の前に広げてみせる、そういう試みを成したのではないだろうか。それは曖昧模糊としてつかみどころのないものであり、作者の試みは成功しているといえる。人間の愚かな部分をも肯定的に、いや不可避的にとらえ結局そうなってしまうという蒙昧な行動原理がわれわれの日々を支えているのではないかと思わせてしまう力強い説得力を本書はもつ。
ま、そんなことはどうでもいい。ぼくはこの作者とさほど歳もかわらない。あちらが数年先輩なだけだ。だから、作者の筆のままに綴られるこの時代の趨勢はダイレクトに気持ちをかき乱す。でも、作者は本書の中で述懐や思想を述べているわけではない。史実のままにその事件を掘り下げ、何があったかどういう経緯だったのかを詳細に描いていくだけなのだ。そう、それだけなのだ。なのに、本書を読んでいると気持ちがかき乱される。それは事実がもつ重みや深みが理解の範囲をこえ、こちらに声なき叫びを届けてくるからなのだろう。グリコ森永事件、大阪万国博覧会、三島由紀夫自決、五つ子誕生、横井庄一帰還。これらの記述に固有名詞はほとんど出てこない。三島由紀夫は作家であり、川端康成もノーベル文学賞作家であり、横井庄一も元日本兵と記述される。それは、蒙昧な人間の歩んできた短い歴史の中で刻まれてゆく蒙昧に続く出来事だからなのかもしれない。
文庫で二百ページ強。すごく短いページ数なのに、文字数も情報もかなりの量だ。なのに、読み出したらページを繰る手がとまらない。あんな事やこんな事、ほんとうに愚かな人類は、愛しくもある人類であり、そんなわたしたちは一生懸命生きている。だからそれでいいじゃないか。第二部ももちろん読みますよ。
M・W・クレイヴン「ボタニストの殺人(上下)」
このシリーズ、おもしろい。おもしろいんだけど、今回はやはりとてもライトだった。いつもにも増してね。それがちょっと引っかかったけど、おもしろかった。正直エステルのあんな姿は見たくなかったけど、最終的にこの展開はほんと予測不能だった。
あらためてこの作者の『違和感』作りの上手さに舌を巻く。投げかけ、それを読者の記憶に残し、のちに回収する。誰もがやっていることなのだが、この作者はそれがかなり巧みなのだ。違和感というものを提示ではなく記憶の中で処理させるので、読者としてはそこに自然な流れを感じる。これは、その場のシチュエーションや登場人物たちの言動、そして違和感を呼び起こす物なり人なりの配置がそれこそ『違和感』なくできていないといけない。それらのどれかが突出していれば、読者もバカじゃないのでその違和感だけが残ってしまう。はっきりとそこに明滅する矢印が向けられてしまうのだ。
違和感といえば、最近金木犀が咲き始めて、あの芳香がよく鼻につくようになったが、ぼくは子供の頃この香りが大好きだった。なんなら小さい花を摘んで袋に集めて香りを胸いっぱい吸うのを楽しみにしていたくらいだった。しかし、いま五十をとうに過ぎてこの金木犀の香りに少し嫌悪感をおぼえるようになっていることに気づいたのだ。あんなに好きだったのに、いまは安物の柔軟剤みたいで嫌だと思うようになったのである。これは、ぼくの感覚が変化したのか、それとも金木犀の香りが変化してるのかいったいどちらなのだろうとすごい違和感なのである。
閑話休題
『違和感』連想で本書とまったく関係ないことを書いてしまった。しかし考えようによっては、ボタニスト絡みで金木犀なので、いいんじゃないの?
とにかく、いつもよりは軽めだなと、テイリーの精彩も欠いていたなと思ったのだが、やはり本書はおもしろい。ラストの畳みかけもひとひねりあって良かったし、ポーの身の上での変化もあって今後も目が離せないし、はやく続きが読みたい。そう思わせてしまう段階で本シリーズは勝ちなのであります。
王谷晶「ババヤガの夜」
この人の本、本質ついてて好きなんだけど、これはイマイチだった。長編(実質中編くらいの長さだけど)を読むのが初めてだったが、期待してたほどではなかった。「完璧じゃない、あたしたち」や「どうせカラダが目当てでしょ」を読んで、おおいに共感し、なおかつ目ん玉ひん剥かれてしまった経験から、本書もなかなか凄い読後感を与えてくれるのだろうとハードルをあげてしまったのかもしれない。
ちょっと薄い本だなとは思っていたのである。200ページそこそこだからね。薄いから内容が悪いなんて決して思っていないが、読み始めてすぐに、この感じだとやはり薄すぎないかと危惧したのである。物語は、ボコボコにされた女性がヤクザに拉致されて、親分の屋敷に連れてこられるところから始まる。この女性ちょっと特殊な生い立ちで、身体も大きく筋肉バキバキ、暴力をこよなく愛する喧嘩マシーンで、そこを見込まれて連れてこられたワケ。なんやかんやで、結局その喧嘩マシーンが親分さんの一人娘のボディガードになるのだが、ここに集う人達にはいろんなしがらみがあって、そこへ投げ込まれた喧嘩マシーンによって化学反応が起こって、運命が大きく動き出すことになる。
ちょっとね、性急なんだよね。人間関係の序列があって、それぞれの思惑が絡んで、過去を引きずっている者、野心に燃える者、享楽を心から愛でる者、がんじがらめの者、頭より身体が先に動いちゃう者なんかが干渉しあって結末に雪崩れこむのだが、そこに積み重ねの重みがないのである。ストーリーがどんどん先へ先へと進んでしまうので、そこらへんが2時間サスペンスみたいな印象になってしまう。ラスト近くうわ!ってなるところは良かった。まさか、こんなことになっているとはおもわなかった。
だがしかし、いや、だからこそこの軽さはちょっと残念だった。喧嘩マシーン新道依子と親分の娘尚子との関係、物語自体の進行、後半の成り立ちも無理があるし、結局ストンと落ち着かない。次に期待したい。
伴名練「 なめらかな世界と、その敵」
よかったー。すべてがよかったー。久しぶりに余韻にひたったー。熱心なSF読者でもないから、目についたものをピックアップするだけなんだけど、この短編集はすべてが驚きとワクワクに満ちていて、かき乱されちゃいました。収録作は以下のとおり。
「なめらかな世界と、その敵」
「ゼロ年代の臨界点」
「美亜羽へ贈る拳銃」
「ホーリーアイアンメイデン」
「シンギュラリティ・ソヴィエト」
「ひかりより速く、ゆるやかに」
表題作からフルスロットル。読み始めてすぐにその異変に気づくけど、こっちはもうあれよあれよと読まされて無条件に引っ張られてゆく。この作品は映像化不可なのでございます。なんとなれば、ここで描かれるのは並行世界が日常と化した世界なのだ。だから、ここに登場する主人公の女子高生は無限にあらゆる世界に存在するのである。しかもその並行世界を自在に行き来して同時に存在してしまうのである。ここではそれを『乗覚』と呼ぶのだけどね。例えば、教室で友だちとダべっていて振りむいてコンビニのバイトの先輩と会話したりする。朝起きて食卓につく父親に挨拶して、父が亡くなったことを思いだし、出かける時に両親から「いってらっしゃい」と言われる。なんていうの?もう、目がバッキバキになっちゃうくらいの刺激なのでございます。
かと思えば、次の作品では明治に始まる日本のSF偽史が語られる。読ませるよねー。そして、完全ノックアウトされちゃったのが三番目の「美亜羽へ贈る拳銃」ね。伊藤計劃を愛する人々に幸あれ。この作品を読んで激しく感情を揺さぶられた。こんなに苦しいのって東野圭吾「秘密」を読んだ時以来だった。続く二作はタイトルだけ見たらなんのこっちゃ?なんだけど、これもたちまち引き込まれてしまう。アイアンメイデンていうとヘビメタバンドしか思い出せないぼくですが、なるほど『鉄の処女』ね。で、ホーリーね。ストンと腑に落ちるね。A.I.が幅をきかせた世界を描く改変物の「シンギュラリティ〜」は、007かってくらいの丁々発止のやりとりが息詰まる作品で、立場が目まぐるしく入れ替わる快感がおもしろい。クローンのレーニンがいっぱいいるのってシュールで笑える。
で、ラストの書き下ろし「ひかりより〜」は、時間低速化現象を扱った作品で、以前ロバート・ショウの「去りにし日の光」を読んだのを思い出した。あちらは光が透過するのに極端に時間がかかるスローガラスを描いていたが、本作はもっと大掛かり。ちょっとシスターフッドも入って、いったいどういうラストを迎えるんだろう?といろいろ想像したけど、素晴らしい決着だった。
伴名練の描く作品は、すべてやさしさに包まれている。大きくまとめるとそう思う。とんでもない世界が描かれるが、読み終わると心穏やかな静謐が訪れる。それでいて、刺激も存分に味わえる。神かよ。もっともっと読みたい。アンソロジストもいいけど、もっともっと作品書いてくださいませ。
チョン・イヒョン「優しい暴力の時代」
生き辛さは、人生の伴侶だ。人は多かれ少なかれ問題を抱え、なんとかそれを乗りこえ生きている。そんな中で、ささやかな幸せを見つけたり、人の優しさに触れたりして人生捨てたもんじゃないと前向きになれたりするのである。
本書では、そういった日常の出来事が描かれる。男性、女性、既婚者、独身さまざまな人が登場する。誰もが時を選ばずして孤独になる。それは文字通りの意味でもあり、自分が感じる感覚でもある。輪の中での孤独、部屋に一人ぼっちの孤独、教室の、雑踏の、仲間の中での孤独。
自分という個の中で生まれる葛藤には、常に他者の存在がある。受け入れられないから、納得できないから、間違っていると思うから葛藤が生まれる。
だから人生は生き辛い。
本書には七編の短編とボーナストラックとして「三豊百貨店」が収録されている。本編の七編については、特に言及しない。先に書いたようなことを思った次第。
「三豊百貨店」は、韓国で実際にあった最悪な百貨店崩落事故を描いている。手抜き工事とゆるい地盤、予兆もあり死者五百名以上、負傷者九百名以上、行方不明者六名という未曾有の大事故を防ぐ方法と時間はたっぷりあったにも関わらず経営陣の杜撰な危機管理によって、これだけの事故が起こったのである。
著者は、実際その崩落した日に百貨店を訪れている。数時間の差で事故に巻き込まれずにすんだのである。しかし、彼女の友は。
崩落事故の事実と著者の日常を交差させ、その日に集約される構成がステレオタイプなのに効果的。運命の厳しさと生き残ったという実感と、死んでいった人たちへの思い。自分一人で防ぐことはできなかっただろうが、後悔は残る。
そこにある。たしかにある。誰もが知っている。でもそれをあらためて思い起こすこともないし、足をとめることもない。そうやって過ぎてゆく日常。現実、夢、喜び、悲しみ、いろんな色があわさって紡がれるさまざまな風景。やさしさと脅威、楽しさと狂気、反しているのに馴染んでいる。ぼくたちは、それをなんとなくやり過ごしている。でも、やり過ごした痛みは消えない。
杉浦日向子「YASUJI東京」
杉浦日向子は大好きで、彼女の作品は大抵読んできた。出会いは「百日紅」だ。葛飾北斎と娘のお栄、居候の池田善次郎(のちの英泉)が織りなす江戸の風物や怪異。この作品で『走屍』なるものを知った。
それはさておき、それから彼女の作品を手当たり次第読んでいった。「合葬」、「ゑひもせず」、「二つ枕」、「ニッポニア・ニッポン」、「百物語」、「東のエデン」。独特の画風、その当時の匂い、その当時に生きて動く人々、文明が届かない闇、きれいな空気、気っぷ、勢い、綾なす物語の痛み。すべてが合わさって一読忘れがたい印象を残す。
本書の表題作は風景画家 井上安治を題材に現代と過去の東京の憧憬を描く。江戸から明治に変わる時代に一瞬きらめいた井上安治。二十六歳という若さで夭折している。本書を読むまでその存在もしらなかった。まだまだしらない事は数多くある。そんな彼の作品とそれを胸に秘める女性。眠る間に立ち昇る江戸の情景、顔の見えない安治。作品を通しても、その人となりはまったくわからない。でも、動というより静であるがゆえに、心に残る。例えばそれは躍動する馬の汗したたる匂い立つようなシーンを切り取るよりも、その馬がじっと夕陽の方を向き静かに佇むシーンのほうが印象深かったり、あやしい空模様の情景よりも静謐な音がないゆえにキーンと耳鳴りするような晴れた日の情景のほうが心に刻み込まれたりするように。連綿と続く歴史の中で、その地もさまざまな顔を見せてきた。何もないところに人が住み、それが増え、自然が少なくなりやがて人工物に溢れてゆく。安治の見た東京とわれわれの見る東京はまったく違う。しかし、そこに住む人々の日常は基本的には変わらない。朝起きて、生活のために仕事をし、学生は勉強をし、一日の終わりには家に帰り家族と共にあたたかい夜を過ごす。人と人の関わりは百年前も現代もさほど変わらない。風景は変わる。物が増えたり減ったり。
かつて生きてそこにいた人が見た風景。それは未来のわれわれに不思議な動揺を与える。変化の波は、人の行動や生活を変え目に見えるものを変えてゆく。しかし、人の営みは変わらない。どの時代でも「いまの若いもんは、まったく…」なんて言っているのである。
歴史は続く。情景を変えながら。時は流れる。人の死を積み重ねながら。われわれは、何を残していけるのだろうか。
本誌には、他に単行本未収録作品が数編収められている。幻想譚。「鏡斎まいる」は以前にも読んだことがあった。こんな果心居士みたいな人いたらおもしろいよね。一度でいいから会いたいなー。
小松左京「復活の日」
小松左京の本を読むのは初めてなのです。タイムリーでもあるよね、ここまで酷くないけどコロナを体験した身にとってはね。
有名な作品なのであらためて紹介するまでもないだろうけど、本書は未知のウィルス(ということにしておこう)で世界が破滅してしまう話なのである。研究所から持ち出されたサンプル。それを運ぶ途中で事故にあい、サンプルは地に撒かれてしまう。当初それはインフルエンザだと思われていた。名称も発生源と思われる地の名をとって『チベット風邪』と呼ばれていた。過去に何度もパンデミックが発生しており、1918年のスペイン風邪は全世界で推定一億の人が亡くなった。今回もそういった類いだろうと思われていた。しかし、人がバタバタ死んでゆく。さっきまで命あったものが次の瞬間には死んでいるのである。
そうこうしているうちに世界各国で身近にいる生き物が大量に死んでゆく現象がみられる。河を流れてゆく水鳥たち、街中のそこら中でみられるネズミの死骸。やがて人間も死に絶えてゆく。処理が追いつかずそこら中に転がり腐ってゆく死体、死体、死体。この世の終わりだ。
パンデミックの恐怖。目に見えない敵。圧倒的な力の差によって、人類は死滅する。なすすべないとは、この事だ。神も仏もない。朽ち果ててゆく子どもの骨が悲しい。小松左京は、それをあらゆる角度から描いてゆく。こんなに深刻なダメージを受けて人類は、生き残れるのか?
これが充分現実的な話だから、怖いのである。これが書かれた当時は冷戦時代だったから、それはそれで充分な脅威だっただろう。いまはそれに加えてパンデミック自体の恐怖も生々しいから、読んでいて息苦しいことこの上ない。