今回は、またまたネイト・ロマノウスキが前面の回である。半ば生ける伝説ともいえるこの男が謎だらけの政府の秘密組織〈ウルヴァリンズ〉の要請を受け、水面下で進行しているらしいテロ計画について探ることになる。
ジョーは、ルーロン知事から、政府の不穏な動きに関わっているらしいネイトについて探ってほしいと依頼される。また、ジョーの長女シェリダンもルームメイトの誘いで週末にキャンプに出かけることになる。
さて、どんなに鈍い人でもこの三つの出来事が一つに集約されるのはわかるとおもう。しかも舞台は二万三千平方キロのレッド・デザートという砂漠地帯、さらに不穏なのはイスラム系テロ組織が関係しているらしいから、いつもよりハラハラ度合が凄いんじゃないの?と期待する。読み終えた今も興奮さめやらぬ状態なのだが、ご安心ください。期待を軽々と越えちゃってます。
でも、このシリーズを読んでいていつも思うのが、アメリカ銃社会の怖ろしさだ。日本での感覚とはあきらかに違うし、あたりまえなのだが、生活の中に溶け込んでいる銃という武器が簡単に使われていることに恐怖を感じる。引き金を引けば誰でも撃つことができる銃が手を伸ばせば使えるという日常は、ぼくからすればまるで非現実だ。ジョーはまだおぼつかないところがあるが、ネイトにいたっては武器全般のエキスパートだ。それは、物語上とても頼もしいのだが、これが我が身の周りで現実になるとすると話は変わってくる。
でも、それがあるからこそハラハラ、ドキドキするのだから、ぼくは自分の身を安全に保ちながら危険にあふれた世界の物語を心から楽しんでいることになる。実際、若い頃アメリカで一ヶ月ホームステイしたことがあったが、ステイ先の家族に、買い物してお釣りをもらったらすぐにしまいなさいと言われたし、本屋に行ったときなど、入り口で警察官に身体検査されたから何事かと訊いたら、昨日ここに爆弾を置くと予告があったから、一応実施してると言われて驚いたこともあった。ぼくがステイしていたのはサンフランシスコだったから、銃の危険に晒されることはなかったが、これがワイオミングだったらあたりまえに銃が家にあったかもしれない。
なんてこと、つらつら思ったりもしたが、このシリーズが無類におもしろいことに変わりはない。うれしいことにまだまだ続いているので、まだまだ付き合いは続くのである。こんな幸せってある?
ルーシャス・シェパード「ジャガー・ハンター」
たぶんこの人の名前は、随分まえから知っていたのだ。あいまいな表現になっているのは、実際この人の本を読むのは、本書が初めてで処女長編の「緑の瞳」も積んだままで、作家名より本の表紙のほうが印象に残っているからだ。そういう本は数しれず、およそ命尽きるまでに読み切れるはずがないと、最近では悟りをひらいたかの心境である。
戯言はこれくらいにして、この作家は近年「竜のグリオール」関連で再浮上した。ていうか、最初のプチブレイクか。ま、古参のSF好きなら、あたりまえに知っている作家なのだろうけど。本書は、そんな彼の初期の頃の作品をまとめた短編集。収録作は以下の通り。
「ジャガー・ハンター」
「サルバドル」
「黒珊瑚」
「ぼくたちの暮らしの終わり」
「ある旅人の物語」
「メンゲレ」
「竜のグリオールに絵を描いた男」
「スペインの教訓」
一読して、特徴的なクセを感じた。ベトナム戦争、クスリ、中米。これらがブレンドされ独特の世界が構築されている。その中でひときわ異彩を放っているのが「竜のグリオールに絵を描いた男」だった。この作品だけがまるっきり異世界を舞台にしている。
順を追ってみてみよう。巻頭の表題作は中米ものの一作。妻が家電商につくったツケのせいで黒いジャガーを狩ることになったインディオの男の話。舞台設定が整ったところで悪夢が浸出してくる。
「サルバドル」も中米が舞台なのだが、こちらはベトナムを想起させるエルサルバドルでのゲリラ戦争を描いている。プラトーンみたい。
「黒珊瑚」も中米ホンデュラスを舞台にベトナム帰還兵の悪夢を描く。精霊には逆らわないほうがいい。
「ぼくたちの暮らしの終わり」は、グアテマラでの離婚寸前の夫婦の道行きが描かれる。文明と呪術の邂逅とでもいおうか。呆気なく余韻が残る。
「ある旅人の物語」もホンデュラスの島が舞台。ファースト・コンタクトでいい?でも、味わいはかなり異質。どちらかというとおどろおどろしい。
「メンゲレ」は、そのまま、あの誰でも知っているメンゲレが登場する。パラグアイの奥地で墜落した飛行運搬屋の男が助けてもらったのはマッドサイエンティストそのままのメンゲレだったという話。異形のものたちが蠢く地から落ち延びた男は、都会に帰ってからもメンゲレの魔力に囚われ続ける。自分だけが知っている事実は、世界を動かすことはできない。
「竜のグリオールに絵を描いた男」この作品だけほんと別物だ、この短編集の中では。ぼくはSFの醍醐味として、現実にはあり得ない景色を見せてくれるのを楽しみにしているのだが、ここで描かれる都市並みの巨大さという竜のイメージは素晴らしい。しかも動かなくなってかなりの時間が経過しているのに、生命の火は消えていないというのだ。竜の身体は地形となり木や草が生え、独自の生態系が成立し人もそこで暮らしていたりするのである。そんな世界で描かれる運命の物語。この作者独特の泥臭さの中にある真珠のような輝きが感じられる。
「スペインの教訓」作者シェパードは、若い頃ドロップアウトしてヨーロッパあたりを放浪していたらしい。その時の体験をもとに書かれたのがこの短編。といってもそこには現実を侵蝕してくるあちらの世界が顔をのぞかせ、オカルトの鼻薬が効いているものだから、強烈なイメージにクラクラする。いたぶられる感覚とでもいおうか。
色々ととっかかりにくい傾向にはあるが、入ってしまえば空気が馴染んでそこを楽しむことができる。そういう未知のものに対する反発と少しの不安を克服するのに最適な作品集。なかなか接し難いんだけど読んでよかったと思えた。
スティーヴン・キング「コロラド・キッド 他二篇」
中編三作収録。巻頭の「浮かびゆく男」は、体つきはそのままで、体重がどんどん減ってゆく男の話。「痩せゆく男」という長編と似た話なのかと思っていると、あちらがジプシーの呪いで、どんどん痩せ細ってゆく恐怖を描いているのに対して、本作は体重だけがどんどん減ってゆく。言い換えれば、重力から解放されるのだ。だから外見は太った中年男性のまま、服を着てても、10キロの鉄アレイを持っていても、体重だけが日に日に減ってゆくのである。「痩せゆく男」は、かのヘレン・カーペンターのように病的なまでにガリガリになって骨と皮みたいになっていったのに、本作は、そういった悲惨さは皆無なのだ。だから読んでいてすごく快い。でも、メイン州の片田舎キャッスルロック(!)で差別に遭う同性婚のカップルが絡んできたりして、物語は厚みを増してゆく。そこへ、この重力から解放された男がどう関係してゆくのか?やはりキング天性のストーリー・テラーだからもう吸い込まれるように読みましたとも。読み心地はすごくいいけどラストにはやはり別れがある。ひょっとして、マルケス「百年の孤独」の小町娘レメディオスもこれと同じだった?
二編目の「コロラド・キッド」は、長らく読めなかった作品。名のみ知るってやつね。新潮文庫の「ダーク・タワー」が刊行された際というから、もう二十年くらい前かな?第I部から第Ⅲ部まで購入した人だけが読める購入特典として一万人限定で懸賞配布されていたものだ。ダーク・タワーのシリーズは、当時キングが生きている間に完結しないかもしれないなんて言われていたので、まったく読む気がなく、まして当初は角川から刊行されていたのに急に新潮文庫にかわったりして、面倒くさくなっちゃったんだよね。それはともかく、この「コロラド・キッド」そのうち読めるようになるだろうと思ってたけど、まさか二十年もかかるとは!内容はといえば、過去に起きた一見単純な事件を当事者の老人二人とそれを初めて知る若者の三人で再び考察するという話。この老人たちがクセ者で、たった二人の地方紙編集員として現役なのだが、頭がいい上にユーモアを至上と心得ている洒落者なもんだから、インターンシップとしてこの新聞社にきている大学院生のステファニーが、聞き役として開陳される昔話に前のめりになって聞き入っているというシチュエーションが、読者としてはそんなに引き込まれないのだ。老人二人の掛け合いがステファニー(二人はステッフィと呼んでるけどね)の頭の良さを確認しながら、したり顔でうなづきあったりするもんだから、なんか白けるんだよね。
「ライディング・ザ・ブレット」は、2000年に単行本で刊行されたとき、買って読んでいたのだが、この機会に再読。小粒ながらけっこうおもしろかった印象が残っていたけど詳細は忘れてました。いま読むと、当時感じたようなゾクゾク感は薄れており、これも歳をとることの弊害かと思った。結局のところこの話って、恐怖をモチーフに母と子の二人っきりの関係性の中に浮上する愛と絆を高らかに歌い上げているようにみせて、本質の部分ではやはり自分が一番という認めたくない現実を突きつけてくる意地悪さがある。でもそこがキングなのだ。
というわけで、やっぱりなんだかんだ言ってても結局読まされちゃうんだよね、キングって。
クライスト「ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より」

岩波の再刊本は、当時のままの翻訳なのでとても読みづらい。本書は昭和16年に初版が刊行されており、平成19年第7刷で読んだのだが、やはり旧仮名遣いのままなので、とても読みにくい。丸谷才一の文章とは違って、漢字も全く別物だから半ば推測しながら読むような感じだった。解説に記されている日付が昭和27年となっているから、その版からまったくかわってないのだと思う。
でも、そんな足枷のかかった読書にもら関わらず、読みだしたらグイグイ引き込まれる。ここで描かれるのは、理不尽な仕打ちだ。副題にもあるとおり、本書は実際にあった事件を元に書かれているそうで、わずか100頁ほどの短編をたどたどしく、三日かけて読んでなんとか完走したぼくとしては、今も昔も人の気持ちを揺さぶるテーマは不変であり普遍なのだなということを再確認した。誠実に正直に荒ぶることなく、紳士的に対応した結果主人公のミヒャエル・コールハースは、徹底的に踏みにじられるのである。それでも彼は正当に司法に訴えるが、それも棄却されてしまうのである。ただ彼は理不尽な行いにたいしての罪を認め、謝罪し、対価を払って欲しかっただけなのだ。なのに、誰も彼もが彼のことをまともに扱わない。ゆえに彼は奮起する。手のひらを返したように鬼神のごとく反抗するのである。
まさかここまで激しく復讐へと転じるとは思ってもみなかったのでこちらとしては驚きを隠せない。でもコールハースが受けた仕打ちを思えば納得できて胸のつかえが一気にとれるような爽快ささえ感じる。しかし、事は収拾つかないのである。ここからラストまではもちろんここでは語らない。興味を持たれた方は実際に読んでいただきたい。本書がドイツの短篇小説の最高傑作といわれている理由を確認するはずである。
最後に言及しておきたいのが、本書で描かれる時代設定だ。クライストが執筆した時点では過去の出来事として描かれているので、本作の事件が起きた時代はかなり古い。物語の舞台は16世紀のドイツを中心とした地域で、当時は現在のドイツだけでなく、イタリア、スイス、フランスなどにあたる地域も含む神聖ローマ帝国の時代だったのだ。ゆえに、描かれる事柄で国境とか国家というものを現在の感覚で考えると、少し勝手が違ってくる。ぼくは、それをすっかり失念していたので、途中までどうしてドイツの中で国境があったり、選帝侯が何人もいたりするんだろう?と納得いってなかったのだ。そういえば、近代になってからも第二次大戦後の東西ドイツの分裂はあったけどね。
もうひとつ、本書にはあのマルティン・ルターが当事者として登場する。これには純粋に驚いた。結構重要な役割で、彼の登場によって事態が大きく動き出すのだ。古記録にも記されていたから登場しているのだろうが、びっくりしたなあ。
というわけで、本書はもっと読まれるべきなので光文社の古典新訳文庫あたりで出してほしいものである。これ、けっこう本気で願っています。
東野圭吾「放課後」
この表紙、黒川博行氏の奥さんが描かれてて、デザインを黒川氏がされているということで、この本読んで初めて知りました。解説も黒川氏が書かれてるし、同じ大阪出身ということで仲良くされてたんですね。
閑話休題
娘が通勤時に読む本でオススメはあるか?というので、今村翔吾「イクサガミ」を貸したらすごくおもしろかったらしい。次もお願いというので東野圭吾「秘密」をすすめた翌日、氏の訃報を知った。若手のイメージがあったので驚いたが、もう68歳になられてたとは。しばらく氏の作品には接してなかったが、哀悼の意を表して本作を読もうと思った。
本作はドラマ化されたことがあり、ぼくはそれを高校の時に観たことがあった。事件のきっかけになった場面があまりにも露骨だったので今でも記憶に残っている。ゆえにこのデビュー作は読んでなかった。本書が江戸川乱歩賞を獲ったとき、同時受賞した森雅裕「モーツァルトは子守唄を歌わない」は読んだんだけどね。
とても丹精なミステリという印象だ。密室の謎と動機そして真犯人という三題をとても丁寧に積み上げて構築している。そして、ここで描かれるのはそれだけではないのである。読みなれた読者なら、途中の記述に引っかかる部分は多々あると思う。それらが伏線なのだろうとは容易に想像がつく。ところが、それがどういう意味を持つのかまではなかなか見えてこない。そして終盤、それらが有機的に絡み合い、すべての意味が見事に着地する。また、メインとなる密室トリックの鮮やかなミスリード。仕掛けは単純なのだが、それを無理なく納得させ解明への道筋もすっきりとまとめる手腕に驚いた。
遅くなったが本書の内容を少し紹介しよう。主人公は、女子高の教師だ。彼はここ最近自分が狙われているのではないかという体験を何度かしている。駅のホームで突き飛ばされたり、プールで泳いだ後シャワーを浴びている時にコンセントに繋がった家庭用延長コードが水際に転がっていたり、校舎の近くを歩いている時に、自分をかすめてゼラニウムの鉢が落ちてきたり。警察へ届けようとすれば、校長がもう少し様子を見ろと留める。そうこうしている内に生活指導課の先生が密室状態の建物の中で死んでいるのが見つかる。青酸系の薬物が入ったジュースを飲んで亡くなったらしい。結局これは殺人だと断定されて警察の捜査が始まるのだが、なかなか犯人特定までには至らない。女子高の中での殺人、自分が狙われているかもしれないという不可解な状況、そうこうしている内に第二の殺人が起きるのである。しかも、それは明らかに自分を狙ったとしか思えない状況だったのだ。
先にも書いたが、本書は本格ミステリとしての美しい結構を備えている。しかも、無駄な描写がないのだ。それは読み終わってみれば、誰もが納得することだろう。
そしてラスト、このミステリはとても苦い結末をむかえる。それによって忘れがたい印象を残すのである。ぼくが、ドラマでのきっかけの場面を忘れられないように。
飛鳥部勝則「ラミア虐殺」
最近この人の本が数多く復刊されていて再評価が高まっているのは、本屋に通っていれば誰もが感じることだと思う。デビュー作である「殉教カテリナ車輪」を読んだのはもう三十年近く前だ。見開きに織り込まれている著者自身の手になる水車に括りつけられた全裸の女性の絵が強烈に印象に残っている。ていうか、ミステリ的な興趣はまったく憶えておらず、それだけが記憶に残っている。
異形なミステリを書く作家という認識だった。「堕天使拷問刑」の時もかなりエライことになっていたが、本書ではもうそれが好き放題なのである。ぼくが読んでいるのは雪の山荘物のミステリなのか、それとも仮面ライダーのノベライズなのかと思ってしまうほど振り切ってる。異形をとびこえてトンデモミステリになってしまっているのだ。まじめに本書をミステリの文脈で語ることは御法度である。一応、最低限のマナーとしてネタバレはしないでおくが、果たしてその配慮が必要なのか?と懸念してしまうほどの好き放題なのである。
しかし、ミステリとしての結構は保っている。殺人、謎、動機、真犯人すべて揃っている。なのにも関わらずラストに用意されている雪の中での死闘でそんな些細な要素はすべて吹っ飛んでしまうのである。読んでいる最中、というか開巻早々からまさかねというネタが放り込まれており、途中、途中でほんとに?ほんとに?と怪訝に思いながらも、予想している方向へ舵をきられてゆき、それはないよな、ほんとまさかねと思っている着地点に真っ正面から突っ込んでいくのである。
あれもこれも出てきて、ほんとなんでもありなんだけど筋は通ってますの。本書をジャンルでくくってしまえば、そのおもしろさは半減する。これは、ある程度事情を認知している読者のみが楽しめる作品なのかもしれない、飛鳥部勝則という作家、彼の作風、いままでの経緯、すべて飲み込んで咀嚼できる者のみが本書を真から楽しめるのだと思う。
ぼく?もちろんぼくは楽しみましたとも。
永井隆「長崎の鐘」
青空文庫でも読めるみたいだが、やっぱり紙の本でね。岩波文庫の新刊で出てたのだ。長崎での原爆被害を当事者として語った貴重な手記である。著者の永井氏は、爆心地から700メートルの大学病院で被曝。自身も顔に裂傷を負い、動脈からの出血が止まらないまま医師としての使命とクリスチャンとしての信念でもって被災者の救護にあたる。まさに当事者にしか語り得ないその実相は、現実が崩壊するような混乱にはじまり、さっきまで笑顔でいた同僚や生徒たちが泥と血にまみれて黒焦げになってしまうという受け入れがたい現実に戻ってくるという地獄となる。
何もない。手を尽くそうにも何もない。自らも被災し、命からがら崩壊し火のまわる建物から這い出してきた人たち。彼らの献身には頭が下がる思いだ。自らに重ねてみて、医師として働くことは到底できないにしろ、そんなふうに被災した直後から人を助けることができるのだろうかとなんども考えた。あまりにも酷い現実を目の当たりにして自らも傷を負いながらはたしてそんなことができるのか。それを思うと今の平和な世に生まれて、本当にありがたいなと感じるのである。
しかし、そんな彼らにも限界はある。まして、信じていた日本の敗戦が決定的となり心も折れてしまう。突き進んできた日々が真底から瓦解する。痛い、苦しい、熱い。もう少しがんばれば報われる日もくるのではという微かな希望が潰え、どん底に落ちてさえも永井氏はクリスチャンとしての信念を糧に再建への道を力強く歩もうとする。
死んでいった者たち。死ななければいけなかった者たち。突然に生を絶たれるというなにものにも代え難い究極の苦しみを与えられた者たち。彼らと、そして残された人々それぞれに神の摂理としての意味を見つける著者。そうでもしなければ前を向いて歩いてはいけないと思う。悔いとか悲しみとか憐れみなどという言葉で表すことのできない感情の中で、ただ一途に平和を願う。ただそれだけなのだ。





