毎朝納豆を食べます。お酢とタレを入れて食べます。ものごっつぅ旨いです。本書を読んで、それにさらに拍車がかかって、常時納豆が頭からはなれなくなりました。罪な本です。納豆好きには、たまりません。ぼくもミャンマーの納豆せんべい食べてみたいです。あまり糸を引かない調味料としての納豆料理を心から食べてみたいと思いました。
ということで、本書を読んで納豆の旨さを再確認した。ぼくは、この食べ物が好きな自分で良かったなと心から思うのであります。最近、ドライ納豆にもハマっていて、これを五粒くらい口に放り込んだ時の豊饒さといったら、もう口の中が天国になったのかと・・・・。
それはさておき、この奇跡の食物が日本独自のものだと思っている人は数多くいるのだろうけど(ぼくもそうでした。そんなこと疑ってもみませんでした)これがああた、アジア諸国で形を変え、しかし納豆でしかない食物として、その土地に古くから存在するというのだから驚くではないか。
ミヤンマー、ブータン、チベット、中国、さまざまな土地でなくてはならない存在となっている納豆。驚くのはその製造方法で、日本古来で一般的だった藁を使うのではなく、青々とした樹木の葉やシダを使って発酵させているところ。納豆菌という呼称は日本だけのものであって国際的には枯草菌の一種なのだそうな。だから納豆菌は枯れた草にしか存在しないと思っていた日本人の脳みそにこの事実は大きな一石を投じる。そう、枯れていない葉でも納豆は作れるのだ。
かように、納豆についての新事実が高野氏の行く先々で明らかになる。日本納豆とアジア納豆の変遷の相似、あまりにも謎の多い納豆というポピュラーな食べ物の起源など、興味つきない。本書を読んでいると、疑問が新しい道を開いていく爽快感みたいなものを感じる。あたりまえのものが、実はこれほどに奥深いものだとわかってゆく過程の感動を味わった。知るという行為は、多くの選択を呼び込む。知ることによって目の前がさあーっと明るくなるような、道が突然あらわれるようなドラスティックな変化がうまれる。高野氏が自分の足で探し、知ってきたおおくの事実がわれわれの目の前に広がってゆく。本を読んでいて良かったと心から思う瞬間だ。
ぼくは関西人だけど、納豆が大好き。これからもこのクセと旨味のあるネバネバをずっと食べ続けてゆこうと思う。願わくば、アジア納豆も食してみたい。それが夢となった。