幕末最高の蘭学者といわれ語学の天才でもあった高野長英は、天保十年の蛮社の獄で著書「夢物語」において幕府を批判したかどで投獄される。五年後、長英は雑役夫をてなづけ、牢屋敷に火をつけさせる。当時、火災によって牢内にいる囚人に被害が及ぶと判断された時には『切放し』という処置がとられていた。これは三日以内に指定した場所までもどることを前提に囚人たちを解放するもので、約束を守った者は減刑、逃走した者はことごとく死罪と定められていた。長英はそれを利用し、逃走。驚くことに幕府の威信をかけた追跡を逃れ、六年もの間捕まることがなかった。
本書はその長英の逃亡期間を綿密な取材と作者自身の推理で再現した大作なのである。ぼくは以前にこの長英の話を山田風太郎の「伝馬町から今晩は」で読んだ。あちらは、さすが風太郎とうなってしまう恐るべき地獄行として描かれてており、長英が知己の死体を踏みつけて逃亡する様が異様な一編だった。
それはそれですこぶるおもしろい話だったのだが、本書は史実にもとづいておそらくそうであったであろう長英の逃亡劇を描いている。
といって、ここに強烈なサスペンスがあるわけではない。長英が逃亡したのは北は岩手、南は愛媛という膨大な距離だ。幕府の執拗な追跡を逃れ、各所にある関所を越えいったいどうやって長英は逃亡したのか?ここは描き方によればかなり盛り上がる部分だが、吉村氏はそれを丹念に史実は史実として、記録として残っていない部分は氏の推理によって穴を埋め、まるでロードムービーをみるような息づく物語として長英を復活させたのである。
ぼくは本書を読んで、長英と一緒に逃亡した。彼は自分の才能を不当にねじ伏せられ、危急の存亡を迎えるかもしれない日本の行く末を改善できない境遇を呪った。自分は、こんなことをしている場合ではない、もっと多くの兵書を訳し日本が迎えるであろう窮状を救わねばならない。彼の逃亡の真意はそこにあった。無論、残してきた妻や子、それに郷里の年老いた母への思いもあったが、彼を必死に駆り立てたのは自分の才能を無駄に埋もれさせないためであったのだ。
だから彼は逃亡した。必死になって身を隠し、協力者を得て六年もの間潜伏し続けた。その間にプラント著ミュルケン蘭訳の兵書を「三兵答古知幾(さんぺいたくちいき)」として、プロシアのデッケル著ブーコップ蘭訳の「歩騎砲三兵戦術」を「垤氏三兵答古知機(でしさんぺいたくちき)」として翻訳する。
これはすごい情熱だ。彼はその情熱をもって逃亡する。ぼくも逃亡する。彼は身を隠す。ぼくも身を隠す。彼は顔を焼く。ぼくも顔を焼く。本書を読んでいる間、ぼくは長英と一心同体だった。
彼も、その死を心から惜しまれる人だと思う。あの人があの時点で死んでいなければその後の歴史は変わっていたのではないかと思われる人物がいるが、彼もその一人なのは間違いない。
無念を残し死んでいった長英と彼を匿ったがために罰を受けた多くの人のために黙祷。