読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

米澤穂信「米澤屋書店」

米澤屋書店 (文春文庫)

  本を読むという行為は孤独な作業だ。でも、そこには計り知れない宇宙がつまっている。紙に印刷してある字を読むという行為がこれだけの喜びと感動と知識を与えてくれるとは!

 と、今更ながらにおもうのである。本書を読んでいると、読書というフィールドで自由に遊ぶ著者の姿がまぶしいくらいなのだが、同時に自分の歩んできた読書の道を顧みたり、またその道の行く末に思いをはせたり、いろいろ考えることが多かった。

 山田風太郎の「伊賀忍法帖」で開眼したぼくの読書道はその後の四十年あまりで広範な知識を得、おそろしく多岐にわたる道を紆余曲折歩いてきた。どうしても偏りがちな寄り道のクセをできるだけなおして、さまざまな世界に踏み込んでいこうと努力した。でもやっぱり偏りはできてしまう。好きこそものの上手なれというけれど、その好きの中にも甲乙つけて、取捨選択しているぼくがいる。でも、心の中ではずっといろんな世界を知りたい、見てみたいと常に貪欲に欲しているのも事実だ。これは自己完結の行為であって、それが世間に影響することはないし、それで未来が変わるわけでもない。そう考えると本当に読書ってものは意欲的に発散しないと何も実らない行為なのかなと思ったりするのである。

 しかし、そんなナーバスな気持ちをなんとも快くかっ飛ばしてくれるのが本書なのだ。著者の米澤くんの本は、ほんの数冊しか読んだことがないのだが、この人の読書遍歴の素晴らしさは以前読んだ「世界堂書店」で十二分にわかっていたのでそのへんは信頼しかない。この人の上のランクの書痴となると、荒俣宏とか澁澤龍彦とかなんじゃないかと思ってしまうくらい広範囲の守備がしっかりしていて、いったいどれだけ読んできたの?と思ってしまう。

 まだまだなのである。いま自宅にある二、三千冊の本全部を死ぬまでに読み終えることなんて到底無理だということはもうわかっている。なのに、まだ本を買い求め、読みたい本のリストを増やしていくのをやめられない。げんに、本書を読んでまた読みたい本が数冊出てきたから、ちゃっかり登録してるんだもの。京極夏彦だったっけ?本は読まなくても、所持しているだけで意味がある、といったのは。
 それを信じたい。生きていく上で、読書だけに時間を割くことは不可能だ。余暇にしても、おいしいものを食べに行きたいし、プラモデルも作りたいし、映画もYoutubeも観たい。やりたいことはいっぱいある。このジレンマは死ぬまで続くのだろう。

 本書は米澤穂信が雑誌や新聞に書いた読書や本に関する文章を集めたもので、彼の信念や本質を知る上で恰好の読み物となっている。もちろん、ミステリに限らずさまざまなジャンルの本にも言及されいて、好ましいことこの上ない。でも、ちょっと物事をとらえる視座が鋭敏なところがあって、そこまで気にしなくてもいいんじゃない?とおもうことが何度かあった。これは性格の違いだろうね。