本書の著者は十三歳の夏に小説のおもしろさに目覚めたのだそうだ。それがどんな作品だったのかは本書で明かされるので、ここでは言及しない。著者はそれまで小説はまったく読んでおらず、漫画一辺倒だったというのだが、ここでぼくは大いに興味をそそられた。なぜならぼくも十五歳の頃まで小説はほとんど読んでおらず夏の読書感想文用に嫌々読んでいただけで漫画一辺倒だったのだ。だから、小さい頃からの本好きの人たちと違ってお気に入りの絵本や思い出に残るジュブナイル本などは一冊もない。
その反動もあって、この歳になってカニグズバーグの「ジョコンダ夫人の肖像」やウェストールの「かかし」や 長谷川 集平の「トリゴラス」などを読んで大いに感銘を受けてるという始末。なんとも情けない。だからもっとはやく読書の楽しみを知っていたらという後悔の念はつねにもっていた。
ぼくが小説に開眼したのは山田風太郎の「伊賀忍法帖」を読んだことに端を発する。当時、ちょうどその作品が映画化されて、主演の二人が表紙になっている本が平積みされていた。映画への興味から何気なくその本を手にとり内容紹介文を読んで思春期まっただ中のぼくは鼻血が出そうなほど興奮した。そしてすぐさまレジに走った。そう、目的はただ単にエロのみ。それだけで衝動的にというか発作的にというかとにかくその本を読んでみようと鼻息を荒くしたわけなのだ。
で、とにかく読んでみたら、これがああた、そんなエロ目的なんてブッ飛んでしまうくらいめっぽうおもしろい。こんな世界があったのか!どうしていままで誰もこんなおもしろいものを教えてくれなかったのかと歯噛みしながら、次々と忍法帖を読破していったというわけ(当時はまだ角川文庫のショッキングピンクの背表紙は健在で風太郎忍法帖は選り取りみどりだったのだ)。それからは、膨大な読書の大海へと無謀にもたった一人で漕ぎ出し、文春文庫から刊行されていた「東西ミステリーベスト100」や角川文庫から刊行されていた「読書の快楽―ブックガイド・ベスト1000」や「活字中毒養成ギプス―ジャンル別文庫本ベスト500」などなどを参考に暗中模索状態で失われた読書時間を取り戻そうと必死に、しかし悦楽に耽りながら小説の魔力にからめとられていったのである。
とまあこんな感じで新参者感覚で読書の世界に飛び込んだ手前、もちろんぼくには素地がなくいわゆる古典と呼ばれる文学全集に収録されるような世界的な名作を手にとることは本当に少なかった。そんな中でも思い切って読んでみておもしろいと感じたのが「嵐が丘」と「罪と罰」で、これを読んでぼくははじめて読書の達成感というものを得たといまでも思っている。
しかし、古典。されど古典。ぼくの目の前にはまだまだ乗り越えなければならない高峰が連綿と続いているのである。
と、本書を読むまでその事実に少し重荷のようなものを感じていた。そしてあとどれくらい読書をする時間があるのだろうと思うにつれ、ぼくの中で焦りのようなものも生じてきた。スロー・スターターだったが本好きであると自認している身にとって、やはり一度は読んでおきたいのが古典名作だ。しかしどうもとっつきにくい。ぼくの中で時代と国が違うという点ですでに割をくっている。まして訳が古いと、それを理解すること自体が一つの労力を要する。なんていろいろ自分の中で理由をつけながら今度こそ今度こそと読むタイミングをはかっていた。
だが、本書を読んでその気鬱がいっぺんに吹っ飛んだ。そんな堅苦しく考えなくてもいい。本を愛する者にとって、その本を読む時期があり、それは自然と巡ってくるものなのだ。だから焦らなくてもいいしその事を重荷に感じなくてもいい。一度トライして挫折した本であっても、また時を経て読んでみれば今度は難なく読めてしまうこともあるのだ。
こういったことは経験則として自分の中でもある程度確立されていたと思う。だが、同じような境遇で小説の世界に入っていった人から、その過程を乗りこえた者としての声で語られると、とても安心してしまうのだ。
だからぼくは、自然な気持ちでまだ読んだことのない「カラマーゾフの兄弟」や「ドクトル・ジバゴ」や「アンナ・カレーニナ」や「風と共に去りぬ」や「アブサロム・アブサロム」や「ジェイン・エア」や「酔いどれ草の仲買人」や「重力の虹」や「百年の孤独」や「亡き王子のためのハバーナ」などを読んでいこうと思うのだ。
これでもマンゾーニの「いいなづけ」やアリオストの「狂えるオルランド」や、そうそうつい最近もジョイスの「ユリシーズ」を読破したではないか。だからやはり本を読む時期というものはある。それが巡ってくれば読めばいいのだ。
読まず嫌いは、自分が勝手に思い込んでいるもの。いわばそれは自分で壁をはりめぐらせた狭い独房に閉じ込められているようなものなのだ。
さあ、独房から出よう!そして読書の愉楽を味わうために広大な本の海に漕ぎだそう!
こういう前向きな気持ちをぼくは本書から得ることができた。ありがとう。本書との出会いはぼくの中で一つの転換でした。