海の向こうの出来事ながら、9.11同時多発テロが我々に与えた衝撃は計りしれないものがあった。旅客機がビルに突っ込んでゆくという映画の中でも観ることのできないような凄まじい映像と、その後に続く貿易センタービルの崩壊。もう十年近くになるが、あの時の衝撃は決して薄れていない。
本書はその9.11以後のアメリカと、その時にアメリカにいた一人のパキスタン人青年の人生の変遷をモノローグのみで描ききった静かな小説だ。モノローグと書いたがそれは形式上のことであって、本書の中でこの青年は相手を前にして語りかけている。パキスタンのラホール旧市街のアナルカリ・バザールで何かを探している様子のアメリカ人に「何かお手伝いしましょうか」と青年が声を掛け、いぶかる相手に「自分はアメリカのプリンストン大学の出身でニューヨークの一流企業で仕事をしていた」と身の上を話しだすのである。一流の大学、一流の企業、そして美しいアメリカ人の恋人。彼の身の上話はしかし、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。9.11テロが起こり、それを機に次第に物事の歯車が軋みはじめる。
あのテロ以降のアメリカとそこに取り残されたパキスタンの無害な青年が辿る疎外とアイデンティティ追求の物語。政治と経済と宗教と民族。そういった複雑で割り切った答えの出ない問題が常に通奏低音として流れ、焦躁にも似た静かな怒りが不気味に潜行してゆく。また、本書を読み解くキーワードとして原題にも使われている『ファンダメンタリスト』という言葉が頻出するのだが、これは青年が仕事で扱う企業価値判断におけるファンダメンタル(財務上の数字)としての意味とイスラム原理主義としての意味を兼ね備えている。一般にあらゆる報道で誤解された認識として『イスラム原理主義 = 過激派テロリスト』という図式があてはめられるのだが、本書の中でも幾分アイロニカルに諦めの意味をこめて使われているように感じた。とにかく本書が9.11以後にパキスタン人作家によって書かれたというところに重要な意味があると思う。同族としての苦悩、民族としての疎外感、そしてすべてがうまくいかない空虚な気持ち。
そういった日本人には馴染みのない様々な想いが静かに語られる。そしてラスト、この静かな物語はあまりにも不穏な空気の中、幕を閉じるのである。余韻。静寂。すべては侭ならぬ運命のもとへ。