読書の愉楽

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背筋「近畿地方のある場所について」

 

近畿地方のある場所について

 今年の蝉もほとんど死に絶えましたね。

 それはさておき、本書は今月末に刊行されるそうなのだが、カクヨムで無料で読めたので、読んでみた。いま流行りのモキュメンタリーの手法で恐怖の輪廻を描いている。

 評判になって、書籍化されるだけあって作りはしっかりしているし、捉え方もおもしろい。昨年読んだ芦花公園氏の「ほねがらみ」も似た感じの話だった。様々な現象が記事や証言によって掘り起こされ、一見関係なさそうなそれぞれの事柄が実は根本の部分でつながっていたという話。しかし、時系列がいまいち理解しづらかったりアプローチが多すぎてすっきりしなかったりで、すとんと落ちた感じがしなくて、ストレートに怖さにつながらなかった。これは先に言及した「ほねがらみ」にも感じたことで、頭悪いから整理が追い付かないんだよね。

 小野不由美残穢も、当時の感想を引用するならば

 写実的な描写をまどろっこしく感じる部分があり、緻密ゆえの歯がゆさも手伝って怖さは半減した。



 となるのである。難しいよね、こういうのって。文章にもリズムがあるし、出し入れのタイミングとか効果を狙って自爆したりとかあるもんね。その点、これはまた少し違うのだが「文藝怪談実話―文藝怪談傑作選・特別篇」に収録されていた『田中河内介の話』は圧巻だった。これは田中河内介の怪談話を徳川夢声、池田彌三郎、長田幹彦鈴木鼓村の四名が披露しているのだが、ちょっと長いけど引用するね。

 

この怪談話は二段構えであり、元の怪談にかぶさる形でとどめの怪談が語られる。詳細は実際に作品に接して頂きたいのだが、この怪談がそれぞれの語り手によって幾重にも繰り返される。同じ話を何度も読まされる側としては本来なら疎ましいはずなのだが、これが案に相違して恐怖の相乗効果をあげているのである。さっきも書いたとおり、この話は語り手が変わるごとに少しづつ様相を変えてゆく。それはあきらかに齟齬として読み手に認識される。しかしその齟齬は歪みとして物語を呑み込んでゆく。歪みはあたかも怪談自らが発する怨念のような効果をあたえる。いってみれば、判明しない事実によって引き起こされる不気味さとでもいおうか。まさに『藪の中』を地でゆく話なのだ。



 というわけなのだ。これをモキュメンタリーで成功させればさぞかし怖い話になると思うのだが、なかなか難しいよね。本書もこちらの探求心と驚愕を引き出そうと、あの手この手でアプローチしてくるのだが不気味さ、怖さ、不愉快さにおいて心を揺さぶられるまではいかなかった。

 ていうか、これは事実なのか?だからこれほどに散らばっているのか?恐怖譚が理路整然とおさまるはずがないのは承知だが、この投げっぱなし感はそういうことなのだろうか?

 そういえば、以前話題になったテレビ東京の『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』という番組もちょっと似た感じだったな。やはりそういうことなのか?蝉はもういないのか?ぼくの母の肩はちゃんと動くのだろうか?