読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

カーソン・マッカラーズ「マッカラーズ短篇集」

マッカラーズ短篇集 (ちくま文庫 ま-55-1)

  ずっと気になっていた作家だ。なんか、境遇含めてフラナリー・オコナーと混同していたのだが、こうして両方の作品に触れてみると、やはりしっかり区別できるよね。

 オコナーは、非情さと過剰な負の光彩に彩られているけど、マッカラーズは非情さの匂いを残しながらも、ユーモアも感じられる。それと哀れさとでもいおうか、涙の痕跡をたどるような、やり遂げなくてはならない決意の裏にある悲しさみたいなものが感じられた。

 本書の大半を占める「悲しき酒場の唄」は、不器用な生き方しかできない人たちが織りなすドラマだ。人間だれしも不器用であって、どんな偉業を讃えられた偉人でも細部では受け入れられないところがあったり、独特の癖があったり、人に接する部分で不器用であったりするものだ。まして、偉業も成していないその他大勢の我々にいたっては、不器用が服着て歩いているようなものではないか。

 そんな自戒はまあいいとして、「悲しき酒場の唄」を読んでいると、到底自分ではこういうことにはならないよな、と登場する人物すべてに自分を当てはめて読んでいても思うのである。でも、理解はできる。こうだから、こうなるというような明確な答えが出る状況ではないにも関わらず、その展開に不思議と納得がいってしまう。そうはならないだろうと思っていても、それはまだ馴染みのある奇妙さであり、冷酷さだった。そこにはまだ人と人との関係における温もりもあって、落ち着ける部分があった。悲しい感情に引きずられる焦燥と、どうにもならない達観が同居しているような諦めがしがみついた希望が描かれていて読み心地は悪くない。

 すべてはうつろい変わってゆく。前はそうであったものが、今はそうでなくなる。余計なものが増えたり、当たり前だったものが失くなったりする。時の流れは成長を促し、感情は老成してゆく。そういったどうにもならない移り変わりを切り取って自らの境遇を反映させマッカラーズは物語を紡いでゆく。それは変えることのできない自分の匂いや信念が、人とは違う感情や受け取り方が、成長と喪失の中で変化しながらも確固として存在することを確認する作業なのかもしれない。

 次は長編を読まねば。「心は孤独な狩人」も「結婚式のメンバー」もどこかにあるはず。