ラヒリの描く人物は、そこに居る。ページを開けば、彼らの息遣いや体温を感じる。字面を追うだけでそれだけの感覚を想起させるラヒリの筆遣いには毎回驚いてしまう。
スパシュ、ウダヤン、ガウリ、ベラ。本書を読み終えたいま、彼らはぼくの中では決して架空の人物ではない。彼らは、確かにそこに居た。生きた人物として存在していた。娘を連れてインドから帰ってきたスパシュを迎えた誰もいない我が家。警官たちに捕まり、草地を歩かされるウダヤン。置いてきた過去を振りかえり心の痛みを咀嚼しようとするガウリ。自分の生い立ちを知らされ混乱するベラ。彼らの体験はすべてそこにあった。そこにあり歴史としてぼくの中に刻まれていった。あまりにも豊饒で滋味深い。使い古された言い回しだが、確かに本書には小説を読む喜びが詰まっていた。
『低地』とはスパシュとウダヤンが育ったインドのカルカッタ郊外にある二つの池に隣接する数エーカーの土地のことだ。雨季には、池から氾濫した水が低地を覆いつくし布袋草が繁茂した。そしてこの場所がスパシュとウダヤンの仲の良い兄弟の運命を別つ場所となったのである。
幼い兄弟は仲良く育ちやがて大学へ通うようになる。だが、60年代後半、インドの西端ベンガルにあるナクサルバリで土地の所有権をめぐる農民たちの反乱が起こった。これを契機として、ウダヤンは革命運動に情熱を燃やすようになる。物静かな兄に反して物怖じしないウダヤンは、極左過激派(ナクサライト)として警察に追われる身となり、やがて自宅近くのあの低地で両親と身重の妻ガウリの目の前で射殺されてしまう。知らせをきいて留学先のアメリカから帰ってきたスパシュは残された弟の妻を因習にまみれたインドの暮らしから連れ出す決意をする。手探り状態ではじまったアメリカでの新たな暮らし。しかし、幼い娘ベラを産みおとしたガウリの胸には満たされぬ欲求が高まっていたのだった。
インドが抱える民族としての長い歴史と変革。移民としてのアメリカでの暮らし。そこに含まれる悲哀と静かな情熱。日々暮らしてゆく中で人は家族とでさえ、かけひきをし慎重にならざるを得ない場面に出くわす。大きな問題と小さな問題。差異はあれど、それらは必ず生活の中で波紋を起こす。うまくいえないが、ラヒリはそれらの機微を積み重ねるエピソードの中で巧みに表現してゆく。まったくもって素晴らしい。
インドが抱える民族としての長い歴史と変革。移民としてのアメリカでの暮らし。そこに含まれる悲哀と静かな情熱。日々暮らしてゆく中で人は家族とでさえ、かけひきをし慎重にならざるを得ない場面に出くわす。大きな問題と小さな問題。差異はあれど、それらは必ず生活の中で波紋を起こす。うまくいえないが、ラヒリはそれらの機微を積み重ねるエピソードの中で巧みに表現してゆく。まったくもって素晴らしい。
また、章ごとに視点が変わるのは月並みながら、そこに時間を前後させる演出があり、劇的な効果をあげているのも印象に残る。特に本書のラストの哀しく美しい幕切れは印象的だった。
やはりラヒリの書く小説は本物だ。もう一度書くが、ここには小説を読む喜びが詰まっている。どうか未読の方は是非本書を手にとってみてほしい。絶対後悔しないはずだから。