以前、服部文祥の狩猟サバイバルを読んで、自分で食べるものを自分で殺し捌くことへの意義を知った。普通、人は肉を食べるとき、すでに精製されてきれいに商品化された肉を買う。だが、それはもとは一体の生きた動物だったのである。ぼくたちはそれが生きた動物から商品としての肉となる過程を知らない。いや、もちろん事実として屠殺場、屠畜場があるということも知っているし、そういう場を通して牛や豚が毎日何千頭も殺されていることを知っている。また、そういう職業に対して蔑視があることも。
本書の著者である佐川光晴氏は1990年から2001年まで大宮食肉荷受株式会社で牛を屠る仕事についていた。まったくの未経験で就職し、牛をバラすエキスパートになった人である。本書で語られるのはその屠場での日常なのだ。
話は変わるが、本を読んでいて我が身にあてはめるのは常のことなのだが、ぼくはいままでいったいどんな生き物の命を奪ってきたのだろうかと考えてみた。食べるために殺したものといえば、魚や貝やカニくらいで、子供の頃にカエルやザリガニを遊びで殺したくらいだ。この場合、虫はカウントに入れてない。魚や貝やカニにしても声を出さないから捌けるのであって、捌く際になんらかの悲痛な叫びなんかをあげる生き物だったら、ぼくには捌くことはできなかっただろう。また大きさも重要だ。だから声を発し身体も大きい食肉用の家畜を屠るなんてことは想像もつかないのだ。
そんな大それたことをこの著者は未経験であるにも関わらず自分の生業にしようと考えた。まったくその度胸には恐れ入ってしまう。そして氏は怒鳴られ、怒られながらも牛を食肉に加工していく技を習得していくのである。いまではこの工程もかなりオートメーション化されているようだが、著者が働いていた頃はまだまだ人の手で捌くのが主流の時代だった。だから捌くための大振りのナイフやそれを手入れするヤスリなどは必需品で、またそれを使いこなすのが職人だったわけなのだ。
変に思うかもしらないが、本書を読んでいると読書をすることの悦びを感じる。知らない世界への知的欲求と読み物としてのおもしろさ。おそらく決して体験することのない出来事を本の目を通して擬似体験するのである。これ以上の読書の愉しみかたはないのではないか。そこまで思ってしまう。
具体的な工程や描写についてはここでは語らない。それは興味を持った方だけが本書を読んで体験していただきたい。薄い本なので、すぐ読めてしまう。自分たちが口にする肉がどういう過程で加工されているのか知っておくことも大事なのではないだろうか。