嘘みたいだった。彼女の唇はやわらかく吸いついてきた。
すべての夜が流れ、星が消えさり、部屋に音が満ちた。素敵な夜だった。
理解がついていかない。すべてを脳裏に刻みこもうと思った。笑い声と汗。
まだだ。まだだ。おれは天に昇った。
中は熱い。すごく熱い。
おれはそのすべてに身を任せた。官能と喜悦。興奮と過ちの予感。天は地に、地は天に。時が引き延ばされ、やがて終焉を迎える。おれは彼女の身体を折れるほど抱きしめた。でも足りない。これだけでは、足りない。おれたちはお互いを貪りあい、それは朝まで続いた。
東京へ来て圧倒されたのが、つい半年前だなんて信じられない。林立する高いビルや、息がとまりそうな雑踏に心底ビビッた。ここはおれがいるべき場所じゃない。そう思った。
でも、それがどうだ?スカウトされた事務所で四ヶ月レッスンして、あっという間にデビュー。もともと歌は得意なほうだったけど、まさか自分がアイドルとして全国に顔を知られるようになるなんて、思いもしなかった。
デビューする前は、芸能界というと使い捨てが当たり前で、ちょっとやそっとの覚悟ではやっていけないところだと思っていたけれど、実際そこに身をおいてみれば、こんな遣りがいのある仕事はないんじゃないかと思うのである。親の猛反対を押し切って飛び込んでよかったと心から思った。いままで、どちらかといえば日陰の存在だったおれが、ある日を境に一斉にまわりから注目されるようになったのだから自然向上心がメキメキ音をたてるように上がっていくのは当たり前のこと。日に日に自分のくすんだ殻が剥がれていくのがわかった。
そうなってくると、自分を磨くのがおもしろくて仕方がない。あまり気にもかけてなかった食事や、自分の身体の管理なんかも日々節制し、ストイックな生活がまったく苦にならなかったし、逆にそれをしないと落ち着かなくなった。
そんな忙しいおれの目の前にあらわれたのが二年先輩の宇須里マナだったのだ。
もちろん、彼女のことはよく知っていた。今もっとも注目を集めるアーティストであり、某雑誌の専属モデルであり、業界がその言動に左右される、カリスマファッション・リーダーだった。
彼女が動けば、億単位の金が動くというのがおれのまわりのもっぱらの噂であり、そこいらの芸能人では手の届かない高嶺の花だったのだ。
そんな彼女が、どういうわけかおれに興味をもった。信じられないことだが、本当のことだ。
彼女と同じ歌番組に出演した夜のことである。マネージャーが妙に低い声で、おれに電話をかけてきた。
「他言無用に願います」まず、そう切り出した。
「宇須里マナさんの事務所から連絡が入りました」
なんのことかわからない。
「それって仕事の依頼なの?」
「いえ、違います。あくまでも、プライベートな申し出です」
一瞬で、頭の中が真っ白になった。あの、あの、宇須里マナが?まさか、おれと・・・・・・。
「事務所同士の話はついてます。それと、これにあなたの感情は斟酌されてません。無条件であちらの申し出を呑んでいただきます」
ちょっとムカついたが、おれにも異存はない。おれは無言で話をうながした。
「十時に迎えに行きます。行き先はプリンス・パークタワーです。名目はこちらで考えます。あなたは、時間までに身支度を整えてください。お食事も用意してあるそうですので、そのつもりで」
それからのことは、よく憶えていない。気がつけば、おれはホテルのガーデンスイートルームで宇須里マナと顔をつき合わせていたというわけ。でも、その夜には何もなかった。おれたちはお互いのことを話し理解を深めただけだったのだ。それは夢のような時間だった。おれたちは時を忘れて語り合った。お互いの生い立ち、いままで経験してきたこと、何が好きで何が嫌いなのか。他愛もない話なのに、おれは心底からときめいていた。それほど彼女の魅力は圧倒的だったのだ。
三日後、今度は師緒乃レイからコンタクトがあった。彼女もいまは飛ぶ鳥を落とす勢いの女優であり、スポンサーを十五本も抱えるCM女王で、確か今年の映画賞を総ナメにした実力者でもある。彼女も事務所経由で連絡してきた。芸能界はこれだから嫌になる。なんでも事務所を通さなくちゃいけない。おれたち芸能人は一個の商品なのだ。自分勝手な行動は破滅につながるのである。
師緒乃レイとはウェステインホテルで逢った。これがこの業界のシステムなのかよくわからないが、このときもおれたちは身体を触れ合うことなくホテルを後にした。
そして、それから一週間後のことだ。今度は両方からのアポが入った。おれはどちらを選ぶべきなのか。
冒頭の描写でもわかるとおり、いまでは答えは出ている。でも、あのときは身を引き裂く思いで決断したのだ。おれは、選んだ。一人の女性を。答えは冒頭の一節に書かれている。