読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

服部文祥「狩猟サバイバル」

イメージ 1

 著者の服部氏はぼくより年下なのである。そんな彼がちょっと普通では考えられないことをしている。

 それがこの本のタイトルにもなっている狩猟サイバイバル登山なのだ。

 米や調味料などの必要最小限の物だけを携帯し単独で冬の険しい山に分け入り、自分で食料を調達し目的を目指す。もちろん獲物を狩るために猟銃は所持している。また野宿用のタープ(テントの代わりにする簡易幕)や焚きつけ用の固形燃料は持っている。しかし、それだけなのだ。他の食料もないしテントもないし、コンロも持たない。厳しい環境の中で、己のみを頼りにし生き貫くために他の生き物を殺す。

 なぜ便利な世の中にあって、わざわざそのような困難な道を選ぶのか?

 スーパーに行けばきれいに精製された新鮮な肉が簡単に手に入る。わたしたちはそれを買って調理する。しかし、それらの肉は当然のことながら生きていた動物のものだったのだ。彼らは肉になるために命を奪われ、解体され食品になっていく。わたしたちはその過程があることを知ってはいるが目にすることもないし、感じることもなく日々肉を食べている。服部氏はそこに疑問を感じるのだ。スーパーで買う肉は命であるという真実が抜け落ちている。食べるために殺すという行為は本来切り離すことができないものなのだ。なのにわれわれの日常生活では「食べる」と「殺す」は遠く離れてしまっている。

 自分の力で事を成すのがサバイバルなら、自分で殺したものを食べるべきだ。彼はそう考えた。

 本書の中で彼は八頭の鹿を仕留めている。そしてそれを自らの手で解体し食べている。その過程の描写はぼくに読んでいて今までにない複雑な感情を呼び覚ました。

 銃で獲物を仕留めるのは、決して簡単なことではない。ばったり出会うなんてことはめったになく、獣道を隈なく歩き、獲物の動きを予想して何時間も動かず待ち伏せしてようやく出会ったとしても、相手は警戒心が強い上に動きが素早く、木々が我彼の間を見えづらくしていたりして一発で仕留めるなんてことは夢のまた夢なのである。それでもなんとか弾を当てることに成功したとしても、相手は手負いの状態で逃げてしまうのだ。それを血痕をたどって追いかけ最後にとどめをさすのだが、このへんの描写がなんとも辛い。歩けなくなって、しゃがみ込んでいる鹿に近づきながら彼は声を掛けるのである。

 「もう動けませんか」

 その声を聞いても鹿はじっと動かず見上げている。さらに近づこうとすると、ようやく立ち上がり不器用に逃げようとする。不自然にぶらぶらしている右前足。銃で再び狙いをつけ引き金を引く。くず折れる鹿、しかしまだ生きている。彼は死にかけている鹿の頚動脈をナイフで切る。そうして解体するのである。

 きれいごとじゃない行為、生々しいやりとりをそうやって体験し、著者は自然と折り合いをつけてゆく。

 生半可な気持ちでは決して出来ないことだと思う。命を繋ぐために命を奪う。大自然では普通に行われているその行為がわれわれには欠けている。ぼくは、本書を読んで著者のメッセージを真摯に受けとめた。

 だが、それを実際自分でやろうとは思わない。また、けっして出来ないだろうとも思う。確かに大型の哺乳類の命を奪うなんてことは大それたことなのだ。自分が生きる為とはいえ、それをこの手でしようとは絶対思えない。きれいごとで済まそうと思うのではなく、そういう行為が心底怖いと思うのだ。ぼくが自分で殺せるのは虫までだ。それ以上は無理なのだ。だから、本書を読んでとても貴重な体験をした。

 命を得る為に命を奪う。その単純な図式にはとても複雑で奥深く難しい色々なことが含まれている。

 と、ここまで読まれた方は本書がすごくヘヴィな内容の本だと感じられたかもしれないが、決してそんなことはない。服部氏の文章はとてもユーモラスで人懐っこい。とても快適なのだ。だから臆せず、ぜひ本書を手にとっていただきたい。本書を読めば世の中の見方が少し変わるのは間違いない。