読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ウラジーミル・ナボコフ「ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック」

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 いまね、ナボコフが熱いんですよ。なんかね、ブームなんですよ。光文社古典新訳文庫で「カメラ・オブ・スクーラ」、「絶望」、「偉業」とどんどん新訳が出て、河出の池澤夏樹=個人編集 世界文学全集から「賜物」が沼野充義氏の新訳で刊行、早川書房からは「アーダ」が若島正氏の新訳で刊行、そして満を持して新潮社から『ナボコフ・コレクション』がどーんと刊行開始されたわけなのです。ぼく自身、当初ナボコフにはそれほど興味は惹かれてなかったし、一般的な認識しかなく、ああロリコンのおっさんなんでしょ?くらいにしか思ってなかった。でも、まあなんとなくここらで「ロリータ」読んでおくかと思いたち、読んでみたらこれがなかなか手強い本で、といってもそれは難解に終始するタイプの手強さではなく、遠回りの手強さとでもいうべきか、饒舌の手強さとでもいうべきか、とにかく情報の多さに驚いたわけなのであります。でも、ストーリーとしてのおもしろさは健在で、お、ナボコフなかなかいいじゃんと思ったわけなのだ。

 しかし、その後がなかなか続かなかった。いろいろ本は積んであって(「ナボコフの1ダース」、「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」とかね)でも、あまり読む気にはなれなかった。それが、この『ナボコフ・コレクション』を書店で見かけたとき、雷に打たれたわけなのだ。まず、その装丁にシビれてしまった。みなさん、実物まだ見てない方、ぜひ書店で本を手にとってみてください。ほんと、撫でまわして愛でたい本なのだ。

 今回、このコレクションで強調されているのがロシア語原典からの訳ということで、いままで翻訳されていた「マーシェンカ」も「キング、クイーン、ジャック」もすべて英訳からの翻訳だったらしく、亡命作家として名を残すナボコフの源流に触れるという意味で今回のコレクションは画期的な試みなのだそうだ。ここで、ぼくの不明を明かしておきたいのだが、「ロリータ」を読んだとき、ぼくはナボコフのことをあまり知らなかったので、彼が亡命したアメリカで母国語ではない英語でこれだけの小説を書いたという事実に驚いたなんて感想に書いていたのだが、もともとナボコフは英語も堪能だったらしく、フランス語でさえも文章を書くぐらいはお手の物だったらしい。いやあ、すごい人がいたもんだ。

 で、ようやく本書の感想なのだが、「マーシェンカ」は処女作だけあって、後の『言葉の魔術師』と呼ばれるナボコフからはほど遠く、いたってノーマルな作品だった。ほんと短めだし、スラスラ読めちゃいます。しかも初恋を描いていてなかなか美しい。「マーシェンカ」というのがその初恋の人の名前なのだが、この小説の構成が憎いのは、その当の本人が主人公の回想には登場するけど、なかなか現れないところなのだ。これはじれったくて、良かった。回想中心ゆえに、女性像が美化され、郷愁と相まって美しさが強調されるといった具合。いい作品です。

 第二作である「キング、クイーン、ジャック」は、ベルリンが舞台で登場人物もすべてドイツ人。ある夫婦のもとに青年が現れ、奇妙な三角関係が生まれてやがて不穏な犯罪計画へと話が流れてゆく。ここでは、はやくもナボコフワールド炸裂で、それはちょっとついていけない比喩表現や、ところどころに登場する含みをもった描写にあらわれている。本書の出だしはこんな具合
 

【 分刻みの動きを前に凍りついていた時計の巨大な黒い針が、いよいよ震えはじめると、その張りつめた振動とともに、世界中が動き出す。絶望と軽蔑と退屈に満ちた文字盤は、ゆっくりとその向きを変え、一本また一本と、柱は無表情な男性像(アトランテス)さながらに、駅の丸天井を運びながら、歩き去ろうとする。プラットホームは、吸殻や切符、日光の斑点や痰を、行方もしらぬ旅路へと運び去りながら、その身体を伸ばしていく 】


 なんのこっちゃ?でしょ?でも、そこがナボコフなんですよ。こういうちょっと立ち止まって脳内を整理しなきゃ情景がみえてこない比喩を使ってくるんですよ。これ、駅から列車が発車する場面なのだが、なかなか凄いことになってるでしょ?あと、無生物を生物的に描写しちゃうのもお茶目なナボコフの特徴で、ところどころでなかなか可愛い仕草を見せてくれたりする。
 てな感じで、なかなか刺激的な読書体験なのであります。一般に、小説といえばピンからキリまでありまして、一番読みやすいのがただ筋を追うだけのものであるのはみなさんもご存知のとおり。だから、国内の現代小説などは、すごく読みやすくてやはり文化や言語が違うとこれだけ物の捉え方も変わるものなんだなあといつも思ったりするのですが、時には、このナボちゃんのようないちいち考えもって読みすすめる小説に取り組むのもいいもんであります。

 ぼくも、この歳になってようやくこういう小説を楽しむ余裕が出てきたということでしょうか。
興味を持たれた方は是非、お読みください。でも、このコレクション新潮社から出てるだけあって高いよ。ピンチョン全集もそうだけど、ほんと新潮社、やってくれますねえ。