読書の愉楽

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ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」

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 いわずとしれた『ロリータ』なのである。しかし本書を読んでない方は、ロリータという名称だけで、成人男子が少女を食いものにする異常性愛者の物語だと誤解しているのではないか?確かに、本書のメインテーマはそのとおりの異常な性愛だ。中年男が十二歳の少女に恋をし、あげくの果てに肉体関係まで結んでしまうのだから、反社会的にもほどがあるってものだ。しかし、ナボコフはそんな倒錯したアンチ・テーマを主軸に据えて、あえてそれを文学作品として成立させてしまった。しかも母国語ではなく亡命した果てに辿りついたアメリカで英語でそれを成しとげたのである。そのバイタリティは脅威的としかいいようがない。
 
 この若島正訳には詳細な注釈がついている。若島氏曰く『この注釈は初読ではなく必ず再読のときにお読みいただきたい』そうである。なぜかといえば、『ロリータ』という小説は、再読、再々読によって新しい発見が次々とあらわれてくる小説であり、ナボコフのいう『人は小説を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ』という言葉通り、読み直した際に初めて気づくような仕掛けにあふれているので、それを手助けするためにつけた注釈ゆえ、読み返して初めてわかるような事柄にも触れている部分があるからだそうだ。

 

 なんとも大層なことではないか。当然、ぼくなどは再読するほど熱心な研究者精神は持ち合わせていないので、注釈と首っ引きで読みすすめたわけなのだが、この行為はジョイスの「ユリシーズ」を読んでいた時とまったく同じだった。本書の中でも何度かジョイスやその作品への言及はあったが、ナボコフもあの大作と比較されるような作品をこのような異常性愛がらみで成しとげてしまって、まったくお茶目なことである。ジェイムズ・ジョイスにしろヘンリー・ミラーにしろ性愛というものは人間の根源に直結する部分でもあり、それゆえ溢れ出るようにさまざまな現象が波及する部分でもあるので語り尽くしても語りきれないものがあるのだろう。


 それはともかく、この万華鏡のような小説をぼくはただ一つの側面のみで印象づけてしまった。これだけ長いページを割いて、饒舌に脱線と軌道修正を繰り返し、時にはユーモアを時には悲哀をこめて描かれるハンバート・ハンバート(もちろん本名ではないよ)の独白の中で強烈に心に刻まれているのは、「ロード・ノベル」としての情景なのだ。メルモスなんてわけのわからない車(すまないマチューリン)に乗って、ハンバートの主観ですすめられる旅の記録は、アメリカを横断する悲喜こもごもとりまぜて色彩豊かな物語であり、少しスノッブな香りのする偏執的なハンバートの個性と奔放であけすけで危険をはらむロリータの言動があいまって表面的にはかなり俗物的な物語として印象に残ってしまった。しまったと少し残念な言い方になってしまうのはご愛嬌。これは、一個人としての感想なのだから。

 

 ぼく個人の見解としては、本書は壮大な冗談でしかない。ハンバートの手記として機能するこの小説の企ては、基本的に信用できない。それは語り手の事情であり、そこに第三者が介入できる余地はない。まったくナボコフも人が悪い。主人公を語り手にすることによって生まれる余地を彼は最大限に利用して本書を構築した。なんでもない事だし、誰もがこの方法で小説を書いているが、本書の著者はあのナボコフなのである。とうていぼくなどには歯がたたないわけだ。
 
 しかし、本書を読んでその片鱗を味わうことはできる。難解で晦渋な部分が強調され、その内容からも読者を遠ざけてしまっている本書だが、未読の方はどうか臆せず読んでみてほしい。本書は、あれやこれやあって結構楽しめる小説でもあるのだ。特に中盤の急展開には心臓が跳ね上がるほど驚いたしね。