≪『ホテル』が、今、沈みつつある。
そうわたしに教えたのは〈風〉だった。≫
そうわたしに教えたのは〈風〉だった。≫
また、たとえば「柘榴」の出だしの二行。
≪煙草工場の赤黒い長い煉瓦壁に沿って、石炭がらを敷き詰めた道をぎしぎし歩いているとき、また、お化けに遇った。≫
ここらへんまでは、まだついていける。次に紹介する「断章」はこう。
≪マニキュアを落としたら、透明な爪と指の肉のあいだのわずかな隙間が水にみたされ、何か泳いでいる。また塗りつぶした。≫
だんだん頭角をあらわしてきた。「こま」という作品はこうだ。
≪餓えた風は街の表皮を削り、壁の亀裂に血の雫がにじんだ。≫
ね、凄いでしょ?次の「夕陽が沈む」の出だしなんか真骨頂ですよ。
≪新聞を読もうと広げたら、またも活字が滑り落ちて紙面が白くなった。活字たちは列をなして床を進み、出窓に置いた水槽をめざして這い上りつつあった。≫
もう、こうなってくると自分の頭が沸騰する音が聞こえてくる。こうしてまるでキャッチーでない出だしで背負い投げをくらわされたあと、なんとか立ち直って、とりあえず必死につかまって振り落とされないようにしながら読みすすめていくことになる。
そう、御歳84になる高齢なおばあさんに、いいように弄ばれているのだ。もう小説をよんで三十年以上になろうとしているこのぼくがだ。
だから皆川博子に心酔してしまう。この感覚を味わえる作家は他にいない。
皆川博子は唯一無二なのだ。
解説で、日下三蔵氏は、「ここに来て新作と旧作の刊行が相次いでいるのは、時代が皆川博子に追いついてきたからだ」と書いているが、ここで一足先に皆川熱にとりつかれた身としては少し歯がゆい気持ちになる。この素晴らしい幻想短編たちがこうやって広く紹介されることによって、まだ受け入れ態勢も整っていない素養のない読者の目にとまり、意味もわからず貶されることになるのではないか。でも、こうやって皆川博子の作品が多くの読者に読まれるようになったからこそ、入手困難だった「冬の雅歌」や「夏至祭の果て」や「海と十字架」や「炎のように鳥のように」が読めるようになったのだし、やはりこれは喜ぶべきことなのだ、と無理やり自分を納得させている。
わかる人だけがわかればいい。だから皆川博子は宝物なのだ。
彼女はずっと世間が真っ当な評価をくださなかったばっかりに、背を向けて自分の好きな世界、自分の偏愛する世界を描いてきた。ときには迫害も受けたし、広く受け入れられることもなかった。それでも、彼女は自分を信じて、自分の愛する世界を自分の言葉で自分の筆で描いてきたのだ。それがようやく、世間に受け入れられるようになってきた。
本当は喜ぶべきことなのだが、ぼくは素直に喜んではいない。複雑な心境だ。
とまれ、本書はそんな彼女の真骨頂なのである。本書の中では「墓標」の鬼気迫るラストに心底ビビった。幻想物としては「陽はまた昇る」「釘屋敷/水屋敷」「夕陽が沈む」「更紗眼鏡」が特に良かった。
やはり皆川先生にはこの路線でがんばってもらいたいと思うのだ。
だって上記に紹介したように、こんな作品を書いて驚かせてくれる作家なんて、いまの日本には一人もいないのだから。