読んでいるうちに「これぞ、小説だ!」とか「こういうのが読みたかったんだ!」とか「こういう作品を一度でいいから書いてみたいな」などと思ってしまう本にであった時ほどうれしいことはない。
いままでに読んだ本の中では川端康成の「山の音」がそうだったし、S・キングの「シャイニング」がそうだったし、中勘助の「銀の匙」がそうだった。レヴィンの「死の接吻」を読んだ時もそう思ったし、ゴーゴリの「外套・鼻」を読んだ時もそう思ったし漱石の「坊っちゃん」を読んだ時もそう思った。
そして、まさしく本書がそうだった。これぞほんと面白い小説だ。
この作品は、安部公房特有のブラックユーモアと非現実的な論理感とめまぐるしいまでの会話の妙で埋め尽くされている。
主人公と自称『火星人』との全編にわたるアクロバクティブで超論理的な、だが言いかえれば、いいわけと屁理屈の大展覧会ともいうべき会話(主に自称『火星人』のほうだけれども)が、なにしろ圧巻なのである。
これほどの雄弁家なら、もうどこに出しても向かうところ敵なしといった感じで、一種の憧れさえ抱いてしまう。
そして、その弁舌の妙に酔っているといきなり横っ面をはりとばされたような衝撃をくらってしまうのだ。
「はたして自分は本当に人間なのだろうか?」
まさしくディックの悪夢世界そのままだ。自分が本当に人間なのかどうか。それはどうやって証明すればよいのか?
この主題は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」とそっくり同じなのだが、本書はそれを純粋な形で真っ向から描いてみせるのである。
自分が人間であるということをどうすれば他人にわからせることができるのか?今まで人間のように振る舞い、生活をしてきたが、本当は人間じゃないのかもしれない。人間だという証拠はどこにもない。どうしたらいいのだ!ああ、いったいぼくは何なのだ――――――と、思春期の悩める青年や、少々頭のネジのはまり具合のおかしい人などが読むと真剣に悩みこんでしまいそうになるのである。
いや、ほんとのところいったいどうしたら自分は人間だと他人に信じてもらうことができるのだろう?
本書のラストはそんな人間のおちいる穴に対してもっとも正直な答えを出している。
その解答は考えてみるだけで恐ろしい。