読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

石蹴り

 石を蹴る。ころころころ。軽く飛ばされ跳ねてゆく。ぼくは世間に顔向けできない身だ。この石のようにどこかへ飛んでゆきたい。自由を知りながらぼくは自由じゃない。そう、自由でありながら常に何かに束縛されている。それは社会であり法律であり家族であったりする。足についた重石は常に重みを増している。苦い酒の味がする。大事なのはまなざしだ。そこにすべてがある。過去も現在も地下鉄の壁に書かれてある予言も。
 


 大きく息をすったとたんに咳き込んでしまう。身体が弱っている。物語が頭をよぎる。

 
 ある男が完全にこの世から姿を消してしまうという話だ。その男は重い荷物を背負っていていつも片足を引きずっている。彼の頭の中には常に最上のメロディが流れていて、しかしそれは口に出すと消えてしまうのだった。だから彼は常にもどかしい思いをかかえていた。頭の中のメロディを世の中に発表する方法があれば、いったいどれだけの人が幸せになれることだろう。そう思いながら彼は重い荷物を運んでいた。ところで彼が運んでいるのは十字架だった。キリストがゴルゴダの丘磔刑に処せられたあの十字架だ。彼はその十字架をゲッセマネの園まで運ぶ最中だったのだ。帰結としての象徴を事の始まりに返すという仕事を請け負っていた彼は自分の仕事の総決算として最後の大仕事を成し遂げようとしていたのだ。三と四十二日かかってゲッセマネの園に到着した彼は負傷していた片足が完治していることに気づき、その瞬間にこの世から消え去ってしまった。もとよりそのことに深い意味はない。これはそれだけの物語。


 そしてまたもう一つの物語が浮上する。それは影を愛した男の話だ。その男は消えかかった火を熾すことを生業としていた。ロウソク、たき火、釜戸の火、ランプにガス灯そして火事まで。彼はさまざまな消えかかった火に生命をあたえていた。火は彼が息を吹きかけると驚くほど大きく燃えあがった。同時に彼の影も大きく伸び上がった。影はひょろひょろと細長くゆらゆら揺れながら彼の三倍くらいの大きさまでふくらんだ。いつしか影は大きくなったまま彼の足元から離れるようになった。そして彼のあとをついてまわるようになった。影が意思をもったのである。影は彼を保護した。影は彼をかばった。影は彼を守った。そして時たま笑わせた。彼はそんな影に心を許し依存するようになった。それは偽物の愛情だった。守られることのない約束だった。すべてが終結したとき影は彼のもとを去り、彼はこの世のものとして存在できないパーツになってしまった。もとよりそのことに深い意味はない。これはそれだけの物語。



 それらの物語が頭を通りすぎてゆき、その間ぼくの身体は弱り続けた。いくつかの星が消え、何十億もの生命が生まれる間、ぼくの身体からは細く長くエーテルが流れだしていた。もはやぼくには石を蹴る力もなくなっていた。それでも石は転がってゆく。ころころころころ。石は自由に予測できない方向へと転がってゆく。転がる先で何にぶつかるかはわからない。どこへ落ちるのかもわからない。何に跳ねとばされるのかもわからない。それは運命であって、誰にも決められない。毎日がなにごともなく平穏に過ぎてゆく奇跡。眠り、食べ、歩き、悩み、喜び、悲しむ。それだけのことを無事に過ごせた奇跡に祈る。


 ありがとう。ぼくは今日も生きています。