読書の愉楽

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皆川博子「死の泉」

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 文庫本で644ページ、重量級の長編ミステリである。

 

 舞台は第二次大戦下のドイツ。ナチスの政策で設立されたレーベンス・ボルン【生命の泉】という組織の運営するホーホラント産院にいる妊婦マルガレーテの独白で物語は幕を開ける。この組織はアーリア人種の子を一人でも増やすために未婚の女性たちに安心して子供を産ませる目的で作られた組織であり、国家の子を欲している総統のもと貞節は二の次にして『女性の第一の義務は、健康な純血の子供を国家に提供することである』なんていう身勝手な言い分を推しとおして設立された施設なのである。将来の兵士の数を確保するために道徳を踏みにじり、どんどん子供を生産する工場。ナチ親衛隊の種付け場。世間の人々はこの施設に入る女性たちを蔑視していた。

 

 そこには不老不死の研究をし、芸術をこよなく愛すクラウス・ヴェッセルマンというエキセントリックな医師がいた。彼の求婚を受け入れたマルガレーテはやがて戦争の狂気に自身もからめとられて戦火の中、後戻りのできない幻惑の世界に身を投じることになる。

 

 本書はまずその構成がふるっている。表紙を開くとまたもう一つの表紙があり、そこでは本書がギュンター・フォン・フュルステンベルクの著書であり、それを野上晶が訳した翻訳書であるという体裁になっている。このギュンターは本書の中にも登場する人物で、二部以降では重要な役割をすることになる。本書は三章に分かれていて〈Ⅰ 生命の泉〉はマルガレーテの手記が当てられており、Ⅱ、Ⅲはギュンターによる創作ということになっている。

 

 さて、これで本書が簡単な入れ子状態になっていることがわかるのだが、このような体裁はミステリ読みにとって、さして目新しいものでもないし、むしろこれで本書が『信用できない語り手』による物語なのだという気構えができる。話は平常のまま、特に奇を衒った部分もなく、目を見張る仕掛けもなく、時を遡ることもなく自然と流れてゆく。最初から最後まで物語を読む悦びにあふれた豊潤で贅沢な時間。読者は皆川博子の紡ぐ虚構の世界で自由にあそぶ。

 

 ナチス、生体実験、双子、カストラート、地下の迷宮、岩塩窟、不老不死。さまざまなモチーフが入り乱れ、豪華絢爛に物語は終息してゆく。

 

 そして、最後の最後にまっている入れ子内で書かれる『あとがきにかえて』。もちろんこれは訳者の野上晶が書いた体裁になっているのだが、ここで、読者は皆川博子の仕掛けた大きなトリックに足元を掬われることになる。この効果は絶大だ。まして、それが明確な解答になっていないところが皆川博子らしいところなのである。大きなどんでん返しとそれに続く混乱。ラスト一行の描写においては、微かな恐怖さえ感じてしまう。数字で割り切れるような気持ちのいい答えが待っていないにも関わらず、本書はミステリ作品として永遠に記憶に残る本となりえている。素晴らしい。やはり皆川博子は神様だ。