読書の愉楽

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A・A・ミルン「赤い館の秘密」

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 とりたてて素晴らしいトリックがあるわけでもなく、アッ!と驚くどんでん返しがあるわけでもないのに一読すればわかるとおり、本書はいつまでも心に残る名作となり得ている。

 それは、全編を覆うユーモアのおかげであり、探偵役のアントニーギリンガムの魅力であり、ワトソン役にしては素晴らしく利発なべヴリーの魅力であったりする。

 実際、本作の真相についてはリアリズムの観点において瑕疵となる要素が散見される。その中の一つなどは、ほとんど致命的といっていい。しかしそういった大きな瑕疵があるにも関わらず、やはり本書は

 忘れがたい作品なのだ。

 まずは本作の書き出しをみてみよう。

 『けだるくも暑い夏の昼下がり、赤い館は昼寝をしているさなかであった』
 
 なんとも平和であたたかい情景ではないか。これから人が殺されるというのに牧歌的にもほどがある。本作は終始この雰囲気で話が進行する。そりゃあ陰鬱なトーンで陰惨な事件が頻発するようなミステリも捨てがたい魅力があるのだが、本作においてそういった要素は皆無である。

 ミルンは本作をミステリファンだった父親に捧げている。ミルン自身も大のミステリマニアだったらしい。そんな彼が常日頃からミステリ小説に対して抱いていた不満を払拭する形で本作は執筆された。

 だから、本作は読者に対してフェアであろうとする精神で書かれている。事件と無関係な要素は極力省き文体は簡潔にし、探偵の考えてる推理が随時読者に披露されるようにする。ミルンはそのためにワトソン役のべヴリーが必要だと考えていたそうである。しかし、この試みはチャンドラーによって批判されることにもなるのだが。

 ぼくからすれば、チャンドラーの警察捜査に関する指摘は大人気ない気がする。実際はチャンドラーの指摘するとおりなのだろうが、そんなことどうでもいいではないか。これだけ楽しませてくれるミステリなのだから、それくらいの瑕疵は目をつぶってもらいたいものだ。

 ミルンの書いたミステリは本作一作限りだということだったが、二年前「四日間の不思議」という作品が翻訳出版された。ミルンが遺していた幻のミステリというわけだ。

 こちらのほうは、少々ユーモアの質が落ちる。そこそこおもしろいのだが、本作よりは数段落ちる。やはりミルンといえば「赤い館」なのだ。

 因みに、横溝正史金田一耕助を創造する際、本作の素人探偵ギリンガムをモデルにしたらしい。なんとも微笑ましい逸話ではないか。