ここで語られるのは、一人の男の狂おしい願望だ。
武州公こと武蔵守輝勝は、幼少の頃人質としてとある城で育てられることになる。彼はそこで首実検の
ため敵の首を洗い清め化粧を施す女たちに出会う。あまりにも凄惨で妖艶な世界に彼は陶然となる。
なかでも真中に座って、首の髪を洗う美女に彼は惹きつけられる。彼女は時折、口元に微笑をたたえる
のだ。首を洗いながら無邪気な残酷さを顔に浮かべて微笑む女。
彼は、そんな彼女を見てたまらなく美しいと思う。彼は自分が生首になって、彼女の微笑みをうけなが
ら洗われている夢想までするようになる。きわめて異質な性倒錯だ。たまさか常人に思いつくようなも
のではない。ここらへん谷崎の変態性が本領を発揮しており非常に興味深い。
そういったフェチズム(でいいのか?)溢れる世界に加え、谷崎の流れるような文体は巻措くあたわざる
物語を展開していく。
ここで本書が誕生した逸話を紹介しよう。
当初、谷崎はこの雑誌に連載することを固辞していた。しかし、連載の依頼のため谷崎のもとを訪れて
いた編集者が、その帰途踏み切り事故で亡くなってしまうのである。
谷崎は追悼の意味もこめて連載を引き受ける。尚、その時事故死したのが「兵隊の死」で有名な渡辺温
だったそうである。
そういった経緯で探偵雑誌に発表された本書は雑誌の性質上、非常にミステリ色の濃い物語になってい
る。伝奇物としても、ミステリとしても忘れがたい作品だ。
はじめはとっつきにくいかも知れないが、読み進むにつれ物語に引きこまれることは間違いない。どう
か迷わず手にとってみて欲しい。これほどおもしろい物語はそうそうないのだから。
尚、本書は未完である。本来なら後編がついて完結する予定だったのだが、それは叶わぬ夢となってし
まった。しかし、本書は前編であるにも関わらず、これはこれで完結しているように思われる。
間違っても国枝の「神州纐纈城」みたいな、ブツ切れの読後感ではないということを付け加えておく。