笠井潔の本は、これしか読んだことがない。もう18年もまえのことである。いまではこの矢吹駆シリーズも再販されて気軽に読めるようだが、ぼくがこの本を読んだ当時は丁度エアポケットに入ってたみたいで、笠井本はまったく書店に出回ってなかった。
そうなると手にいれたいと思うのが人情で、さんざん探し回ったあげくようやくこのハードカバーを手に入れたというわけなのだ。
心情的には本書より次の「サマー・アポカリプス殺人事件」を読みたかったのだが、シリーズ物だということは知っていたので、とりあえず本書を先に読むことにしたのである。
そして、考えてしまった。これは推理小説なのか?
誤解をまねくのを承知でいわせてもらうのだが、確かに本書は推理小説である。殺人が起こり、探偵役が犯人をつきとめる。そう、本書はそのパターンだ。そういった意味では純然たるミステリだ。
だがしかし、本書には作者の論者としての姿勢があまりにも色濃く反映されているのである。それは、矢吹駆とともに事件の謎を追う女学生ナディアとの比較において推考されていく。
矢吹は現象学を体現する奇妙な青年だ。一方ナディアは一般的なミステリマニアを具現化した姿として描かれる。この二人を対比させることによって作者は自身のミステリ論を展開させてゆく。
『観念の殺人』として描かれる一連の事件の真相は、そういった作者のミステリに対する一つの答えなのだ。ここで注目したいのが現象学という聞きなれない言葉だ。哲学に組み込まれるこのいささか難解な学問は、本書の中でも折にふれて矢吹自身の言葉で説明されるが、要するに作者が企てたのはゲームとして機能する安易な量産ミステリの短絡的な動機づけに対する反論なのだ。
トリック重視でおろそかになりがちな動機の非現実性に物申すというわけである。
ぼくには、そういったところが煩わしかった。はっきりいってそんなことどうでもいい。ラストで駆と犯人のたたかわす殺人の観念的正当化と革命についての長い論争など読んでいてウンザリした。
ぼくは基本的にナディアの側である。社会派ミステリーは別にして、ミステリというものは読んで楽しむものだと思っている。トリック重視おおいに結構。動機の非現実性おおいに結構なのである。
だから、この本を読んだっきり笠井ミステリは読んでいない。「サマー・アポカリプス」の方がおもしろいと知っていながらも、いまだに手が出せないでいる。困ったものである。
今日の新聞広告で駆シリーズの最新作である「オイディプス症候群」がカッパノベルズで刊行されたことを知った。ああ、ぼくがこの本を読むのはいつのことになるのやら。