古くからのミステリマニアの間では、長らく待ち望まれていたカーの短編集です。
カーといっても、こちらは短編の名手として名高いA・H・Z・カー。
ぼくも、本書を読むまでこの人の作品は一作も読んだことがなく、名のみ知るという存在でした。
印象に残った作品を簡単に紹介いたしますと、まず巻頭にある「黒い小猫」。
これはミステリの枠にとらわれない、インパクトのある作品でした。誰にでも起こりうる悲劇を描いてい
て、中盤の緊張感は只事ではありません。子供のペットを襲う悲劇でピンとくる作品にマンディアルグ
「仔羊の血」という残酷な短編がありますが、あちらが救いのないのに対してこちらはラストで少し救わ
れます。
表題作の「誰でもない男の裁判」は、奇跡を垣間見るような状況で起こった殺人が描かれます。神の介在
はあったのか、なかったのか。問題の争点がおもしろい。伏線も無理なく張られていて、見事な結末をむ
かえます。
「ティモシー・マークルの選択」はリドル・ストーリーの逸品。こんなジレンマは体験したくありませ
ん。他人事ながら、ほんとジリジリ攻められるような緊張感をあじわいました。
「姓名判断殺人事件」タイトルがいただけません(笑)。が、この作品がミステリとしては一番おもしろ
かった。「猫探し」という作品もそうでしたが、この作者はコージーミステリも書ける人なんですよね。
ロマンス的要素も相まって楽しく読みました。
あと、しゃれた佳品「ジメルマンのソース」も、いわくありげな男の話に思わず引き込まれてしまいま
す。いろんな料理が出てくるのですが、どれも未知なるものばかりで文字通り垂涎ものでした。
今回この人の主だった作品を通読して感じたのは、その上品さです。都会的で、正統で、真っ当、スマー
トな感じ。嫌味やいやらしさがない。これは大きな誤解でした。かのカーと名を同じくして、唯一の紹介
作が「妖術師の島」とくれば先入観でもって、この人はオカルトがらみのおどろおどろしい作風なのかな
と勝手に思い込んでいました。読んでみなくちゃわかりませんね(笑)。気になったのは訳ですね。前半
三編は田中融二氏、次の四編が白須清美さん、ラストの一編が浅羽莢子さんという割り振りなんですが、
この田中訳は紹介当時のままなので、かなり言い回しにギャップが感じられました。できればこれも新訳
で読んでみたかった。というワケで総合的には結構楽しみました。