カナダのオンタリオ州にある北アメリカ銀行第117支店で起こった銀行強盗事件。だが、その強盗は金を要求せず店内にいた人すべてに今持っているものの中で一番思い入れのあるものを差し出せという。安物の腕時計、子どもの写真、読み古したカミュの「異邦人」、給与明細、それぞれが思い思いの物を強盗に渡してゆき、主人公の妻は高校時代から愛用している電卓を差し出す。そうして強盗は去り際に「私はあなたがたの魂の五十一%を手にここを去ってゆきます。そのせいであなたがたの人生には、一風おかしな不思議な出来事が起こることになるでしょう。」と言い残して去ってゆく。そして、それぞれがその五十一%を自身で回復させなければ命を落とすことになるかもしれないと。
それから銀行強盗の被害者たちの身に本当に奇妙なことが起こりはじめる。心臓を掴みとられてしまう男性、靴紐が切れ続ける男性、キャンディになってしまった女性、神と遭遇する女性、くるぶしに彫ったライオンのタトゥーが抜け出して、ライオンに追いかけられ続ける女性等々。主人公の妻は、毎日少しづつ背が縮んでいってしまう。
人間は、常に忘れてしまう生き物だ。感謝すべき事も、ありがたい思いやりも、ささやかな善意も、愛される理由も、日常という止めることのできない時間の大きな歯車の中で少しづつぼやけ、ときめきや驚きを過去に残し、あたりまえの事実として積み重ねられてゆく。そしてそれをことさら気にかけることもなく日々を過ごしてゆく。人間とはそういうものだ。どんなに素晴らしいことでも、感謝すべきできごとでもそれが続けば、感動は薄れあたりまえの事として処理してしまう。
ぼくは本書を読んでそういうことを考えた。それが正しいことなのかどうかはわからない。でも、そういうことなんだと考えた。そしてわかっていながらも適当にスルーしていた事や、恒常化した家族とのやりとり等をあらためて考えなおす機会を得た。本書を読んで、そういう事を考えた。それが正しいことなのかどうかはわからない。でも、ぼくはそう感じたのだ。日常は甘美な惰性だ。それに甘んじてはいけない。普段なら気にもしないそんな高尚な気持ちにさえなった。もっといろんな事に心をひらいて、感謝をしていかなきゃいけないなとも思った。
ああ、あたりまえってなんて卑しくて無神経な言葉なんだろうね。