田中くんの家には古いタンスがあって、その中にはおばあさんのミイラが折りたたまれて収納されている。ぼくはよくそのミイラを見に行く。本当は気持ち悪いと思っているのだが、なぜかたまに見たくなるのだ。ともだちの田中くんは目の大きな女の子みたいな顔をした男の子で、ぼくは何回かキスをさせてくれとお願いしたのだが、いつも断られている。田中くんにはふたつ上のお姉さんがいて、彼女はぼくがいままで出会った女性の中で一番すてきで美人なのだが、ぼくなんかに振り向いてくれるわけがないので、田中くんで代用しようと思ったわけなのだ。
ところで、最近ぼくは珪酸を使った死体の再生法について研究していて、それはあと少しで実現できるところまでこぎつけたのだが、それにはベーリング海峡に浮かぶドウダージ島というプリンスオブウェールズ岬から二十八キロのところに位置する幻の島にいるドウダン猫の前立腺が必要なのだった。
ぼくは田中くんのお姉さんにこころ惹かれながら旅立つことにした。しかし、その前日に左手の指が関節ごとにポロポロと外れて抜け落ちてしまうという奇病にかかり、それゆえに出発できなくなってしまった。
夢はついえた。ぼくはおばあさんのミイラを見にいった。ミイラはあいかわらず黒くつややかにてかっていて、かすかにスルメの匂いがした。気味が悪い。けっして見ていて気持ちのいいものではない。いつものとおり田中くんはとなりの部屋に控えていてぼくとミイラの邂逅に介入してはこない。
これはぼくがはじめておばあさんのミイラの存在を知った五年前から変わることのない仕来りだった。
いつも田中くんは谷崎潤一郎の「春琴抄」を読みながら待っている。彼は佐助の境遇に心底からあこがれていて、いつか佐助のように愛する女性に対して盲目的な(そのままではないか!)全身全霊の愛を捧げたいと願っているのである。ぼくはまっぴらごめんだ。自分の眼を針でついて失明してまで捧げる愛なんてまったくのナンセンスだ。それに春琴の振るまいは女王然としていていささか高圧的だ。あんな女性を愛してしまうなんてまったく悪夢以外のなにものでもない。
だからぼくは田中くんのお姉さんを愛する。彼女は無垢な白い花であり、永遠の処女であり、さわると消えてしまうシャボン玉のような女性だ。藍に近い漆黒の長い髪、細くて白い可憐な指先、すべてをやさしく包みこむ長い睫毛、そして女神のように神々しく愁いをおびた澄みきった大きな瞳。彼女の真実を知っているわけではないが、それを想像するだけでぼくは悶絶しそうになる。だからぼくはいつもプラトンの「饗宴」を読んで、この悶々とした気持ちをしずめている。なぜならここで語られる「愛(エロス)」についての対話はぼくに平穏をもたらすからである。あたりまえのことだが、紀元前でさえ人間は同じ感情をもてあましていたのだ。それを思うとぼくの心は落ち着く。
ところで、田中くんの家にあるミイラは実のところ田中くんのおばあちゃんではない。それはタンスの中にある日突然あらわれた。それは奇跡であり、なんらかのサインであり、もしかしたらあたらしい形の聖痕(スティグマ)なのかもしれなかった。だからぼくはそれに惹かれた。
さて、ここまでぼくは饒舌に語ってきたわけなのだが、信用できない語り手の常として以上の記述の中には嘘がちりばめられている。ざっと数えただけで十の嘘がある。それが何なのかはこの際どうでもいいことだ。奇特にもここまで読んでくださったみなさまには感謝の言葉しかないのだが、ぼくとしては、いっときの想像力の飛翔を感じてもらえたら、これに勝る喜びはない。
では、またの機会を夢みてここらで筆をおくことにしよう。アデュー・モナムール。