読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

本を読むぼくを見ているぼく フランケンシュタイン風ドッペルゲンガーの物語

 本を開いてみる。ざらついて黄ばんだページには、読めない文字が並んでいた。でも、ぼくはそれを一生懸命読んでいる。文字を読んでいる自分とそれを夢でみている自分がいる。不思議なことにぼくは自分を第三者として観察しているのだ。本の内容はわからない。ぼくの意識は最初の瞬間を除いて、本を読んでいるぼくを観察しているぼくの主体となっている。ページを繰るぼくは一心不乱だ。のぞきこんでみると解読不能の文字の間に挿絵がある。まさに古色蒼然といった感じのかすれたタッチのその絵は、腰高の台の上に横たえられた大きな男にかがみこんで、何かをしている白衣の男の絵だった。
 
 うん?この場面は見たことがあるぞ。ぼくの脳内でニューロンに20アンペアの電気が流れ、膨大な量をほこる記憶の宮殿にしまい込まれた50億のシークエンスの中から該当する103の場面がチョイスされさらにその中からふるいにかけられた15のシチュエーションと22の台詞、18の匂いと5つの文献が選択された。ぼくの眼は裏返り、必死に頭の中を覗こうとする。

 チコーン!という音と共に一番ふさわしいと思われる一つの答えがぼくの眉間の間にはじき出された。

フランケンシュタイン

 そうか、この本はメアリー・シェリーのあの悲しい物語なのか。しかし、シェリーの本なら原著だとしてもその言語は英語のはず。なのにいまぼくが必死で読んでいるのは決して英語ではない。じゃあ、これは≪フランケンシュタイン≫ではなく、他の作品なのだろうか。絵の雰囲気からして、なんとも暗くいかがわしい印象を与えるから路線としては間違ってないはず。他にも、こういうマッドサイエンティスト的な話ってあったかな?

 それまでぼくは、この本の内容に気をとられていて、その他のことについてはまったく無防備になっていたのだが、ふと本から顔をあげると、いままで必死に本を読んでいたはずのぼくと目が合った。背筋がゾッとする。昔から数々の文献で自分を見てしまうと、はやくに死が訪れるというドッペルゲンガーの物語が語られてきたが、いよいよぼくもその物語に名を連ねることになるのか。

 いやいや、この状況でまさかそんな暢気なことを考えていたわけではない。ぼくは心底から震え上がっていた。だって、こっちを見ているぼくの両目は真っ白だったのだ。

 なにもかもが謎のまま、この一幕のシーンはまもなくフィニッシュを迎えることになる。不条理きわまりない夢の世界とはこういうものだ。ぼくは、一つのシーンを夢でみて恐怖をおぼえた。

 今回はそれをそのまま文章にしてみた。おそらく、ぼくが感じた恐怖はここには再現されてはいないだろう。夢の不条理とはそういうものなのだ。