読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ぼくの本の接し方

 ゆきあやさんのとても楽しい記事『ゆきあやと語ろう!3 ~積んどく?読んどく?~』では、みなさんそれぞれの本に対する気持ちが真摯に語られていて、ほんと楽しくコメント欄を拝見させていただきました。で、その時にぼくなりの意見も述べたのですが、ゆきあやさんの記事に触発されていま一度本に対する接し方というものを見つめなおすことになったので、それをこの機会に記事にしようと思いました。

 本に対する興味というのは千差万別で、ほとんどの方が好みの範疇で好きなジャンルを絞りこんでいくのが通常なんでしょうが、ぼくはそれに拘りたくないという変な心意気がありまして、元来がとても欲張りなので、喰わず嫌いをしていい本を逃したくないという気持ちが常にあるんです。だから、様々な本を貪欲にむさぼりたいという貧乏症的な気持ちがいつでもはたらいている。それはある種の飢餓状態なんですね。だから満足するということがない。この常に本の飢餓状態にあるという精神状態と、コレクターとしての物欲が合致したとき、積読本が3千冊なんてとんでもない数字になっちゃう事態に陥ってしまうのであります^^。じゃあそれを解消するためにせっせと読めばいいじゃないかと思うのが人情というもの。

 そうなんです。そのとおりなんです。どんどん読めばいい。そうすれば需要と供給のバランスが逆に傾くこともあり得るはずなんです。でも、それができない。

 と、ここでぼくが最近気づいた自分の本との接し方の話になるんです。もともと本を読むスピードはそれほどはやくなかったのですが、最近のぼくは特にそれがスローリーになってきています。一冊の本に対してトータルの時間としての読書は別にして日数をかけるようにわざとコントロールしているふしがある。

 これはほとんど無意識で行ってました。ここ何年もこの方法で読書してたのに、それに気づいたのはつい最近だったんです。では、なぜそんなまどろっこしいことをしているのかと、これも今一度立ちどまってゆっくり考えてみたんです。すると、なんとなく答えらしきものが見つかりました。

 要するに、ぼくは日を変えることによって、一旦リセットしてたんですね。これはどういうことかというと、読書をわざと中断することで、そこにインターバルを無理やりつくり物語世界を宙に浮かせていたんです。え?なぜそんなことするのかって?

 それは、また物語世界の登場人物たちに再会するためなんですね。この行為を繰り返すことによって、ぼくは何度も同じ人物と再会する。そうすることによって、その物語をより深く自分の中に定着することができるんです。そうすれば、その本の世界がより深く自分の中に印象付けられる。イクォォォォォォル、それは忘れないということにつながっていくんです。この歳になって、いろんなことに忘れっぽくなっているのは本人が一番よく知っています。だから大好きな読書に対してだけはそれを克服したい。そんな気持ちが自然と結実した苦肉の策だったんですね。でも、本によってはその技がどうしても使えないものもあります。ライトであまりにもスラスラ読めちゃう本がそうですね。こんなところで例に出していいのか迷いますが、ええい、書いてしまえ!例えばですね赤川次郎なんかそのもっともたる作家ですね。彼の作品はおもしろさと読みやすいライトさがうまくブレンドされて、立ちどまって考えることもなくスラスラスイスイスイィィーと読めちゃうもんだから、どうしてもこの技はつかえない。インターバルをおく前に読み終わっちゃうんだからどうしようもないんです^^。だから、一、二時間で読めてしまうような本は読んでも忘れるのがはやいから記憶にまったく残らない。これはぼく個人の意見なので誤解のないようお願いしたいのですが、そういう本が悪いといってるのではありません。ただ、読んだのに忘れてしまうような読書はあまりしたくないなと思ってしまうんです。かといって隅から隅まで全部憶えているなんてことはないんですが、長い時間をかけて接した本についてはやはりそれだけ記憶に残る部分が多いから雰囲気や匂いみたいな懐かしさが瞬時に蘇るんですね。だから、長い読書に耐えられる本を選びそれをじっくり味わう。これが最近のぼくの本の接し方なんです。この読書法にはメリットもあって、並行して何冊も読めるのが強みです。リセットすることに慣れたら、いろんな世界を同時に味わうこともできるんです。

 というわけで長々と書いてきましたが、こんな悠長なことしてるからどんどん本がたまっていくことになるんです。これはもう、どうしようもないですね^^。