読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

伊藤計劃「ハーモニー」

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 しら菊さんから聞いて初めて知ったのだが伊藤さん3月20日に逝去されていたのである。享年34歳ということで、死ぬのに歳なんて関係ないのだが、ぼくより若いこんなに才能豊かな人がこの世を去ってしまうなんてちょっとショックだった。「虐殺器官」と本書を続けて読んで、まだまだ活躍して欲しい貴重な書き手だと実感していたので、本当に残念だ。また、著者の境遇を知ってから本書を読むとなおさら感慨深いものがある。なぜなら、本書で描かれるのは病が完全に払拭されたまるでユートピアのような世界だからである。

虐殺器官」で描かれた大災禍(ザ・メイルストロム)から半世紀。世界中に落ちた核弾頭の影響で癌が蔓延し、未知のウィルスが流出した世を危惧して、世界は政府を単位とする資本主義社会から、構成員の健康を第一に気遣う生府(ヴァイガメント)を基本単位とした、医療福祉社会へと移行した。各人の体内に〈WatchMe〉をインストールし、体内での変化を逐一サーバーによって完全管理。変化がおこれば、各家庭に常備してある個人用医療薬精製システム(メディケア)で合成された医療分子(メディモル)によって健康を維持できる仕組みになっているのである。

 病の苦しみや、痛みから解放された世界。世界は慈愛に満ち、病気の脅威や心的ストレスとは無縁のまさにユートピアとなっていた・・・・・・・はずだった。

 唐突に起きる六五八二人世界同時多発自殺事件。いきなり自らの命を絶ってしまう人たち。彼らの身に何が起こったのか?ユートピア相転移が起こり、世界はまたあの大災禍に見舞われるのか?

 また作者の創造した世界に打ちのめされた。なんという構築美。「虐殺器官」の世界だけでも凄い到達点だなと感心したのに、本書はさらにその先を描いているのである。これはもう完全にノックアウトされてしまった。最初、本書を開いて目に飛び込んできた文字に少し戸惑ったが、これは読んでいくうちにリズムとして定着してしまった。それにだんだん意図も見えてくるしね。ただ、96ページで物語が大きく動きだすまでの前置きが少し冗長に感じられるのも事実。この世界観と物語の核を成す御冷ミァハ、霧慧トァン、零下堂キアン三人の物語を定着させるために仕方のない方法なのだが、ここはもう少し端折ってもよかったのではないかとも思う。

 しかし、やはりこの才能は素晴らしいと思う。本書は堅牢なSFなのだが、ミステリとしての側面も兼備えている。ラストはやはり虚無的なのだが、これは連綿と続くユートピアデストピアSFの行き着く先として不動のものなのだから仕方がないのである。