読書の愉楽

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小池昌代「タタド」

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 本書を読んで、まだこの人が好きかどうか判断がつきかねている。それは次に読もうとしている「ことば汁」で確定することだろう。いまのところは、本書を読んで感じたことをそのまま述べてみようと思う。

 本書には三っつの短編が収録されている。表題作でもある「タタド」は、まずそのタイトルのインパクトでしっかり心を掴まれてしまう。このタイトルの意味は最後までわからなかったのだが、ネットで調べてみたら、どうやら伊豆半島の多々戸浜からつけられたということらしい。そりゃ、わかんないや。しかしそれがわかってしまうと、このタイトルのネーミングセンスに感じ入るものがあるのも確かだ。これはキャッチコピーの感覚だと思う。既存のものを使って、それを自分のセンスで味付けし、作品として確立させる。多々戸をカタカナ表記にしただけで、そこには日常生活からかけ離れた未知の世界が広がるのだ。

 ただこの作品に関しては、それが作品中に歴然と反映されていないから一般人には理解しがたいタイトルとして記憶に残ってしまう。作者の口添えがなかったら意味の通らないタイトルなんて、いってみれば部品の揃ってないプラモデルのようなもので、受ける側としては最後まで完成しない作品となってしまう。

 しかし、あえてそういうことをしてしまう作者のしたたかさが勝っているからこその川端康成文学賞受賞なのだろう。

 おっと、タイトルの話だけでこんなに書いてしまった。ま、それほどこのタイトルにはガツーンとやられてしまったということなのだ。で、作品の内容はというとこれがあきれるほど普通の話。岩のような風貌の男とその妻が所有する海の別荘にそれぞれの知人が招かれて過ごす一泊の話なのだ。でも、そこにはほのかな官能がたゆたい、糸のような緊張がある。何気ない時間が過ぎていくのだが、水面下で進行している何かがラストでいきなり噴出する演出が秀逸だ。

 次の「波を待って」は海水浴にきている家族の話。主人公である亜子の視点で語られる話は、思考の縦列としてどんどん読まされてしまう。五十にしていきなり波乗りに目覚めてしまった夫と、海を怖がる息子の時雄。この三人の関係が亜子の思考の上で動きはじめる。ラストの黒い波の反復が最悪の結果を象徴しているようで怖い。

 ラストの「45文字」も奇妙な男女の関係が描かれる。仕事にあぶれブラブラしている緒方が街でばったり会ったのが、かつての同級生横山。彼はいま編集の会社を自分で経営していて、緒方に仕事を手伝ってほしいと持ちかける。美術全集の絵につける45文字のキャプションを書いてほしいというのだ。仕事を引き受けた緒方は横山のマンションに泊まりこむことになるのだが、そこにいた横山の妻もかつての同級生サクラダだったのである。もっと生臭い話になるのかとおもいきや、これは結構爽やかな作品だった。45文字のキャプションに固執する緒方が、なんにでも45文字の説明をつけようとしてしまうところがおもしろい。そういうことって、普段でもよくあるではないか。

 というわけで、三篇軽く読んでしまったのだが、最初に書いたようにまだこの作家が好きかどうか判断つきかねている。次の作品に判断をゆだねよう。