読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ダン・シモンズ「愛死」

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 平成6年に刊行された本書を19年寝かせて読了した。シモンズは長編ばかり読んでいて、中、短編は読んだことがなかったのだが、これが素晴らしい作品ばかりで驚いた。本書には5編の中編が収録されている。それではひとつずつ簡単に感想を書いていこうか。



 「真夜中のエントロピー・ベッド」

 

  これは次の「バンコクに死す」と一緒に河出の奇想コレクションで刊行された「夜更けのエントロピ ー」にも収録された作品。タイトルからはまったく内容が予想できないが、これが素晴らしい作品で大いに刺激を受けた。静謐なのに大胆で短い作品ながら長い長い映画を観終わったかのような印象をうけ る。生と死を反映させ、効果的に多くの事例を挿入し淡々と進めていくにも関わらずそこには静かな興 奮がついてまわっている。子を失う悲しみ、事故、ベトナム戦争エントロピーシェイクスピア、様々な要素が効果的に配置され、的確な言葉によってひとつの作品に紡がれてゆく。ああ、こんな作品が書けたなら。




 「バンコクに死す」

 

  本書の中での唯一のホラー作品。いったいバンコクで何が起こったのか?この真相は、ある意味ギャ グかと思えるくらいなのだが、男としてはなんとも気持ちの悪いもので生理的に拒否してしまうね。
  しかもこの作品の良いところは、これをただのホラーで終わらせていないところ。ネタばれになるか ら詳しくは書かないが、いまも人類を蝕み続ける大いなる死へのキップが切り札に使われているところがなかなかショッキングだった。




 「歯のある女と寝た話」

 

  タイトルから単純にそっち系の話なのかなと思って読んでみたら、これがネイティヴ・アメリカンの伝承に基づく豊かなイメージにあふれた壮大な話で驚く。マジックリアリズムの手法と属性としての残酷さ。伝承がもつ突きぬけた想像力の飛翔がこの作品を唯一無二のものにしている。ホカ・ウシュテといういつも股間をおっ立てて女と寝たいだけの少年が、ひょんな事からウイチャシヤ・ワカン(聖なる者)となりメシアにまでなってしまうこの話は本書の中でも二番目に長い作品だが、その長さがまったく苦にならない面白い作品だった。それにしても、ネイティヴの人たちにとっては「ダンス・ウィズ・ウルブズ」はクソみたいな映画だったんだね。ぼくは 大いに感動したんだけど。




 「フラッシュバック」

 

  この作品のみ純然たるSF。過去のシーンを追体験できる『フラッシュバック』というアンプル。まあいってみれば新種のドラッグみたいなものだ。それに耽溺するひとつの家族が描かれている。いったいそれがどうしてそんなに人を惹きつけるのかがよくわからない。過去を追体験するって、そんなにいいものなのだろうか?しかしシモンズはその効用を三者に分けて詳細に描き、それがもたらす効果を分析しシミュレートしてゆく。やはり落ち着くところは悲劇なのだ。




 「大いなる恋人」

 

  誰もがこのタイトルを見て、クソ甘ったるい恋愛物なんじゃないかと危惧するんじゃない?だが、これが本書の中でも一番悲惨で残酷な作品なのだ。ここで描かれるのは第一次世界大戦で最大の激戦となったソンムの戦い。そこでは多くの文筆家たちが理不尽な戦いを経験し命を落としていったが、同時に数多くの優れた文学作品を残していった。シモンズはそれらの作品に大いに感銘を受け本作を執筆したとあとがきに書いている。シモンズは、戦争中に残された素晴らしい詩を作品に反映させるため、架空の詩人ジェームズ・エドウィン・ルークを想像し、彼が戦争中に書き残した手記という体裁で本作を書いている。本短編集のタイトルになっている「愛死」は口絵にも使われているジョージ・フレデリック・ワッツの「愛と死」からきているのだが、これが本短編にメタファーとして登場する。とても魅惑的にね。とにかく、この作品は戦争の悲惨さ残酷さがこれでもかと描かれている。尊厳のかけらもない無惨な死。血と脳漿にまみれて、腐臭の漂う戦場をゆく悪夢が展開される。



 というわけで、この作品集は傑作揃いなのだ。シモンズの実力をあらためて認識した。こうなったらスルーしていた奇想コレクションの「夜更けのエントロピー」も読まなくちゃいけませんね。