妻が買い物に行っている間、生まれたばかりの娘の面倒をみることになった。赤ちゃんの扱いに慣れてい
ないので正直不安だったのだが、これも一つの試練だと思って気持ちよく妻を見送った。
赤ちゃんという生き物は、人間であって人間でない生き物だ。人間と同じ形をしているが、そこに人格の
形成がないゆえに一種独特の雰囲気を身にまとっている。でも、自分の分身ゆえやはり可愛い。血を分け
た情愛や親愛や慈しみが心にあふれてくる。ほんとうは、強く抱きしめて心の中にある愛情のありったけ
を、この小さな生き物に注いでやりたいのだが、そんなことはできないので最近のぼくは常に噴火寸前の
火山みたいな状態になっている。
と、あらぬ妄想にふけっていると娘が泣きだした。歯のない口を大きく開けて、舌を上あごにくっつきそ
うなほど巻いて泣いている。おしめかな?それともお腹がすいたのかな?
さきほど飲みかけでおいてあった哺乳瓶をもってきて咥えさせたが、飲もうとしない。冷めちゃったか。
そういえば哺乳瓶を温める器具があったはずだ。一旦娘をベビーベットに寝かして台所まで探しにいく。
あっちの戸棚を開け、こっちの棚を探しゴソゴソしていると、赤ん坊のいる部屋が妙に騒がしくなってき
た。胸騒ぎがして急いで部屋に戻ると、ベッドに娘がいない。発狂しそうになって探しまわると、死んだ
はずのチャコが廊下でクチャクチャとなにかを食べている。死ぬ間際は、猫らしく自ら姿を隠したあのチ
ャコがいるのも驚いたが、この状況で不穏にも何かをクチャクチャ食べている姿にもっと戦慄した。
ああ、悪夢だ。こんなことが起こっていいはずがない。どうか夢であってくれと思いながら、チャコが食
べているものを覗きこむと、さっきまで娘に着せていたベビー服の切れ端が目についた。とたんに頭の中
でヒューズがとんだ。自分の娘が、あの愛くるしい赤ん坊が猫に食べられたことが理解できない。あまり
の衝撃に髪の毛がざわめき、だらしなく開けた口元からヨダレが流れ落ちた。
すると、いままで一心不乱に食べていたチャコがひょいと反転し、向こうの部屋へ逃げていった。
我に返って追いかけていくと、コタツにもぐりこむチャコの尻尾が見えた。コイツ!と思ってコタツをめ
くると、チャコにキサラにナナにチーちゃんと、いままでウチで飼っていたメス猫たちがそこにいて、そ
れぞれ5、6匹の赤ちゃんにおっぱいを飲ませている。全部で20匹以上の猫がいる。なんだ、これは。
またまた信じられない光景を目にし、気が動転した。もう、頭が負荷に耐えられなくなってきたなと思っ
たところへ「ただいまーっ!!」と玄関から妻の声。さらに進退窮まる状態に、もうぼくの頭は破裂寸前
だ。いったい、この状況をどう説明すればいいんだ?
妻が部屋に入ってきた。真っ黒のドレスに胸元だけ白いラインが入っている。こんな服もってたかな?っ
ていうか、出かけるときこんな服着てたかな?
ちょっとぎこちなく、ぼくは妻に相対した。赤ん坊が猫に喰われてしまったことを妻に告げなくてはいけ
ない。どう言ったらいいんだと思い悩んでいるところで、夢から解放された。