ぼくの母方の祖母は、現在102歳か103歳になっている。歳がはっきりしないのは、誕生日が二つ
あるからだ。誕生日も二つなら、名前も二つある。通常はこちらという風に決めてあるようだが、実際
のところどれがほんとうなのか誰にもわからない。明治の石川県の田舎町での出生届は、なんともいい
加減だったようだ。
現在おばあちゃんは寝たきりの生活を送っている。床ずれ防止のために一定時間で体位交換してくれる
特殊なベッドで寝たままだ。話しかけると、一応受け答えはしてくれる。だが、ぼくが孫であることや
ぼくの妻のこと、子どもたちのことなどは、その都度説明してあげなくてはならない。
当然話はかみ合わない。言ってることは支離滅裂になる。たとえば、はやく着替えなければ○○さんが
やってくるとか、もうすでに死んでいる○○さんがさっき訪ねてきたとか、庭先にある桜の木に猫が登
ってうるさいだとか。まじめに相手していると正直疲れてしまう。最近では言葉もはっきり発音できな
くなってきて、言いたい気持ちは逸っているのだが、唇がうまく動かず針とびしたレコードのようにな
ってしまう。
それでも、おばあちゃんはいまでも元気に生きている。つい何年か前に検査したら、内臓の状態は何十
歳も若いという結果が出たくらいだ。おばあちゃんは、とんでもなくタフなのだ。
若い頃は、だいぶ苦労してきたらしい。関東大震災もすんでのところでまぬがれたそうだし、戦時中は
満州の煙草工場で工場長をしていたそうで、夜寝ているときにサソリが部屋に入ってきて大変だったな
んて話も聞いたことがある。日本に帰ってきてからも、炭焼きの仕事をして重い荷物を担いで毎日山の
上り下りをしたそうだし、いまの家に住んでからも国立病院の看護婦(看護師)の仕事をして、多くの
人の入退院に携わってきたそうだ。暗い夜道を歩いていてマムシに噛まれたこともあるし、映画館の汲
み取り便所で、便器の中から痴漢の手が伸びてきたこともあるなんてことも聞いた。なかなか波乱万丈
な人生を歩んできたわけである。
そんなおばあちゃんは、ぼくの育ての親でもある。仕事で忙しかった母の代わりに幼い頃のぼくの面倒
をみてくれていた。だから、今のぼくの人格形成はおばあちゃんに寄るところが大きいかもしれない。
いらなくなったものでも後生大事に残しておくところとか、物事に対して平然と構えているところとか
感情を剥き出しにしないところとか、すべておばあちゃんの影響下のもと培われたものだと思う。
昔はよくおばあちゃんに怒られたし、数多く意見もされた。ぼくも反発したり、よく喧嘩もした。
そんなおばあちゃんが、いまは赤ん坊と変わらない状態だ。あれほど毅然としてしっかりしていたおば
あちゃんが、動けないで満足にしゃべれない状態だ。
これは人間が帰結する状態として仕方のないことなのだろう。しかし、なんとも複雑な心境だ。
できれば、おばあちゃんが毎日を平和に過ごしてくれればいい。平和とか幸せとか、そういった次元を
超越しているようにみえるが、できれば平和で幸せでいて欲しい。たぶん、おばあちゃんが亡くなると
きは大往生だと思う。だから、悲しみが勝つことはない。よくがんばったと笑顔で送ってあげたい。
ほんとうによくがんばった人生だったと笑顔で送ってあげたいと思うのである。