「国語入試問題必勝法」や「永遠のジャック&ベティ」を読んで、ああこの人はこういう感じの人なのか
と一人合点してそれ以降は全然読んでなかったのだが、本書は純文学系の雑誌に連載されていたシリアス
な作品だということなので読んでみた。
本書は記憶をめぐる物語である。ここで語られるのはまだまだ解明されていない人間の脳の不可思議な在
りようである。記憶というものは得てしてその当人にとって非常に都合のよい状態で保持されることがあ
る。嫌な体験は、はじめからなかったこととして記憶の棚から除外されることもあるし、自分を美化する
ために改竄し、都合のいいように修正したりする。そのようなことは日常茶飯事だ。
そういったとりたてて意識してない脳のシステムを掘り下げ、迷宮に迷い込んだかのような酩酊感を味わ
わせてくれるのが本書「シナプスの入江」なのである。
本書にも出てくるが、記憶は三つの機能から成り立っている。すなわち記銘、保持、想起である。
ある事柄を憶え(記銘)、脳に貯蔵(保持)し、必要な時に思い出す(想起)、この三つの仕組みで記憶
というものが作られる。
では、それらの仕組みの上に成り立っている記憶というものは、どこまで信憑性があるのだろうか?
先にも書いたように、記憶というものは非常に曖昧なものである。例えば同じ事柄を体験した二人の人物
がそれを記憶したとする。後年二人の記憶を照らし合わせてみると、そこには微妙な差異が生じる場合が
ある。「あの時、君はこんな事を言ってたね」「いやいやおれはそんな事は言ってないよ」「じゃあ、あ
の時、偶然通りかかったNさん憶えてる?」「ええ?Nさんに会ってたっけ?」こんな感じである。で
は、その場合どちらの記憶が正しいのだろうか?自分の記憶が正しいと思い込んでいるだけで、本当は相
手の言う記憶が正しいのだったとしたら?そうだとしたら、自分の記憶にある場面は本当は存在しないこ
とになるのだろうか?では、いままで記憶してきたいろんな事柄の中には色んな存在しない過去が含まれ
ているのだろうか?これを真剣に突きつめて考えていけば、少し不安になってしまう。
そして、それに追い討ちをかけるのが『忘却』という忌まわしい現象だ。
歴然とした事実がすっぽりと抜け落ちていることがある。ひょんなことがきっかけでそれを思い出し、愕
然とすることがある。これはある意味ホラー的な現象だといえるだろう。
ぼくにも経験がある。何年か前、ぼくは金縛りにあった。それまで金縛りにあったことなどないと思って
いたのに、金縛りにあった途端『ああ、この感覚は以前に何度も経験してる』とわかった。そう、幼い頃
にぼくは何度も金縛りにあっていたのだ。でも、そのことはすっかり忘れていた。これは、おそらく防衛
的な処置として脳がベールをかけてしまっていたのだろう。あまりにも怖い体験だから、それを無かった
ことにしてしまったのだ。
脳の働きは驚くほど巧妙だ。はかりしれないといってもいい。そのあまりにも広大で深遠な部分にスポッ
トをあて、読者を酩酊させる作品に仕上げてしまった清水氏の手腕に拍手を送りたい。
物語としては少し難があるのだが、でもこれだけ『記憶』に対して想いをはせることができたのだから良
しとしようではないか。