読書の愉楽

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酒見賢一「ピュタゴラスの旅」

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 「後宮小説」以来である。あの小説であれだけ感銘を受けたのに、なぜか疎遠になってしまった。そういうこともあるのである。本書は彼の第二作目であり、初の短編集である。収録作は以下のとおり。

◆ 「そしてすべて目に見えないもの」

◆ 「ピュタゴラスの旅」

◆ 「籤引き」

◆ 「虐待者たち」

◆ 「エピクテトス

 通読して思うのは作者の芸達者ぶりである。巻頭の作品はいわゆる実験小説だ。だって、いきなり一行目から『これから述べられる事件はすべて目に見えないものであるということをあらかじめご承知おきください』なんて変化球で牽制されてしまうのである。さしずめ今の時代なら浅暮三文なんかが書いてそうな作品だった。

 表題作は古代ギリシャを舞台に、あのピュタゴラスの求道者としての姿を描いた作品。これは正直なんとも思わなかった。印象に薄い。おもしろくないわけではないのだが。

 本短編集がにわかに活気づいてくるのが次の「籤引き」からである。これは、とある未開の地に領事として赴任してきた男が体験する奇妙な村の風習についての物語だ。この村では事件が起こると、その犯人を籤引きで選び、さらにその処罰法も籤で決めるというのだ。あまりの愚行に怒り心頭に達した領事は断固としてその奇妙な風習をやめさせようとするのだが・・・。題材は使い古されたものなのだが、その料理の仕方が良かった。先は見えるのだが、村人たちの主張するその『籤引き』の正当性の説明などには妙に納得してしまう部分なんかがあって、おもしろかった。

 猫好きにはけっしてオススメできないのが「虐待者たち」だ。親子三人で暮らす男の家の飼い猫が何者かによってひどい虐待を受ける。爪をすべて折り取られ、毛を毟られた地肌に落書きされ、後ろ足を針金でギリギリに縛られた姿は気品のあったかつての姿の片鱗もうかがえない無残なものだった。あまりのことにショックを受けた男は幼い娘のためにも愛する猫ミヤをこんな目に合わせた奴に復讐することを誓う。これは良かった。猫の虐待は正直ドン引きだったのだが、それからの展開がかなり読ませる。平凡なサラリーマンが復讐の鬼と化し、現実世界から幻想世界に踏み込んでいくというアイディアがおもしろい。この短編集の中で一番のリーダビリティだった。

 ラストの「エピクテトス」も表題作と同じ古代ギリシャを舞台にした物語。表題作がそれほどおもしろい作品ではなかったので正直そんなに期待してなかったのだが、これはおもしろかった。奴隷の身から哲学者となったエピクテトスの生い立ちが語られる。これは語り口が秀逸。作者のなめらかな語り口にのせられてクイクイ読めてしまう。それにしても作者の広範な知識には舌を巻いてしまう。古代中国だけでなく古代ギリシャ・ローマ時代も完全に手中におさめている。やはり普通じゃないな、この人は。

 というわけで、ほんとうに久しぶりの酒見作品だったのだが、第二作目にしてこの安定感は素晴らしいと思うバラエティに富んだ作品集だった。満足いたしました。