読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」

イメージ 1

 この作品には思い入れがある。まさに定番中の定番で、いまさらながら紹介するのは恥ずかしいのだがやはりブログという表現の場を借りてこの本のことを語っておきたい。

 ほんとうに、この本に関してはなりふりかまわず賞賛の声を届けたいと思う。こっぱずかしいのを承知でやっちゃいましょうか。歯の浮くような賛辞並べてみましょうか。

 本書はまるでクリスタルの白鳥と、きれいな音楽のようだ。やさしい馬の目と秋の黄昏のようだ。胸がせつなくて、あつくなる。全体に漂うやさしくて哀しい旋律が、ゴスペルのように鳴りひびき感動がこみ上げてくる。

 わお!やっちゃった。思いっきりやっちゃった。もう、それくらいこの本にはメロメロだということをみなさんにわかってもらいたい。やはり時代を生き残るマスター・ピースは、それだけ素晴らしい作品だということなのだ。

 あらためて本書のあらすじを紹介する必要はないだろう。本書を読んでいない人でも、この話のストーリーを知らない人はいないだろうから。ただ、キイスが小説家として本書で試みた表現方法には言及しておきたい。これは映像作品では決して表現不可能なものだろうから。

 本書は主人公であるチャーリー自身が書いた経過報告書によって構成されている。三十二歳なのに幼児程度の知能しかないチャーリーの書く報告書は文章になってない、まるで出鱈目な稚拙なものだった。

 それが術後、その文章にどんどん変化がみられてくるのである。出鱈目だった文章が次第に形を整えられていき、句読点が増え、漢字を使うようになり、ぼくがわたしに変わってゆく。

 このへんの呼吸は、まったく素晴らしいとしか言いようがない。作者であるキイスはもとより、訳者の小尾さんの仕事は賞賛に値する。

 こうしてチャーリーは愚鈍な男から天才へと生まれ変わっていくのである。だが、あれほど望んだ天才という境遇が逆に彼を苦しめることになる。天才であるがゆえに、すべてが見えてしまう。天才であるがゆえに、すべてがわかりすぎてしまう。天才であるがゆえに、いままで無縁だった驕りに翻弄され憎しみにとらわれてしまう。

 愚かだった頃は、自分が笑われているにも関わらずみんなが笑っているのを見るだけで幸せな気分になっていたチャーリー。他人に対して憎しみなど感じたことはなかった。

 いったい、頭がよくなることが正しいことなのだろうか?そうすることによって純粋な心や、やさしい気持ちがなくなってしまえば、それは大きな代償ではないのか?

 まったく、盲信にも似た天才への憧憬を打ち砕くに充分な皮肉な展開である。学生時代の読書感想文であれば、ここはもっと詳しくつっこんで論考しなくてはいけない含みの部分なのだろう。

 ともあれ、本書は深く心に響く。愛すべきチャーリー。こんなに愛しい奴には、そうそうお目にかかれない。ぼくは本書を愛してやまない。ここは、チャーリー自身の言葉で締めくくりたいと思う。

『ぼくのあたまをしじつでよくしてください。これいじょうわりくなるとこまるので』

 チャーリー、君と出会えて本当によかったよ。