読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ディーノ・ブッツァーティ「モレル谷の奇蹟」

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 こういう体裁の本(どういう体裁かというと、絵と一緒になった小説のことね)は、過去にもたくさん刊行されていて、基本ぼくはそういう類の本が好きじゃないのだ。小説は小説として文字だけで楽しみたいという気持ちが心の奥底にあって、それがたとえ挿絵だとしても、その1ページを損したような気持ちになっていた。

 

 しかし、そんな中にも得難い読書体験をもたらしてくれた本も確かに存在していて、まず思い浮かぶのがアルフレッド・ベスターの「ゴーレム100」。ここで表現されるのは主人公たちが特殊ドラッグによってトリップした集合的無意識界(ファズマ界)なのだが、それがいきなりはじまって、およそ100ページも続くのである。絵がどうのこうのより、この脈絡のない構成にまず驚くし、その自由奔放な表現方法に感動すら覚えた。そういう絵と本のストーリー自体がコラボってる本で一番印象深いのはやはりマーヴィン・ピークの「行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙」。これも本書のブッツァーティと同じく作者自身が絵も達者なものだから、自分の表現方法として小説と絵をマッチングさせて一つの作品にしているのだが、そういう作家さんは結構いてて、有名なところではホラー界の貴公子といわれたクライヴ・バーカーがそうだし、アラスター・グレイなんかも自分で描いた絵を作品世界に奇妙に反映させている。

 

 そういう作者自身が描いてたり、絵とストーリーが一つの作品世界を構成しているのではなく、ただ単に作品世界に添える挿絵的な扱いで絵が挿入されている本では、強烈な画風の会田誠の絵がふんだんに盛りこまれたマルキ・ド・サド/澁澤 龍彦 訳「ジェローム神父」がダントツで印象深かった。もう絵自体の存在力がこれでもかと頭に叩きこまれる一冊で、ここで描かれる少女食人というテーマはあまりにもインモラルで、それがサドの怪物的世界観とマッチングしているから心の根の部分を揺さぶられてしまう。

 

 同様にマリオ・バルガス=リョサの「継母礼讃」、デボラ・モガーの「チューリップ熱」に挿入されている絵画と物語世界とのマッチングも深く印象に残ったし、これはちょっと得した気持ちにもなった。

 

 なんだ!こうして羅列してみると、ぼくって絵の入っている本が好きなんじゃないの?と最初の言葉を撤回したくなってくるね。でも、やはり基本的にぼくは文章のみの本のほうを好むのだ。だから、こういう絵と文章が半々になっている本書のような本は読もうなんておもわないのだが、それがブッツァーティとなると話は変わってくる。なんせ、ああた、あのブッツァーティですよ!

 

 ここで描かれるのは、ブッツァーティが亡き父親の蔵書の中に発見した40ページほどの手書きのノートに端を発するベッルーノのモレル谷の聖所にて崇められる聖女リータの驚くべき奇蹟についての想像上の奉納画なのである。

 

 描かれる奇蹟は、それはもう様々な事象が入り乱れており、空飛ぶクジラや表紙にもある化け猫や山老人が出てくるかとおもえば、火山爆発とともに九百七十三匹の猫が噴出したりと節操がない。巨大コマドリが好きになった女性を誘拐するし、あのアッシャー家からお嬢さんが身を投げるし、大アリが娘さんを強姦しそうになる。そうそう果ては、宇宙人やロボットまで登場しちゃうんだから、もうお手上げだ。そういったあまりにもワンダーな困難を、聖女リータはビューっと空を飛んでやってきて救ってくれるのである。

 

 ナンセンスであまりにもバカらしくて、底抜けに自由なのだ。ブッツァーティは、自身の境遇を加味した上でこういう本を作りあげた。そのとき彼をとりまく状況がどういうものだったのかということは解説にくわしい。ぼくはブッツァーティの作品には親しんでいたが彼自身のことは全く何も知らなかった。彼がイタリア人だということ以外はほとんど何も知らなかったのだ。それが本書を読んで少し理解できた。

 

 本書はブッツァーティの遺作となった。ここには奇蹟が描かれている。ブッツァーティが最後まで信じていた数々の奇蹟が彼の手によって再現されている。そのことを知れば、本書の見方がまた少し変わってくるだろう。

 

 やっぱり、こういう本もたまにはいいよね。