読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ウィリアム・フォークナー「ポータブル・フォークナー」

ポータブル・フォークナー

 フォークナーって、アメリカ南部を描いた作家で、世界文学全集には必ず入っている文豪ていう大雑把な認識しかなかったんだけど、彼って当初は世間からあまり評価されていなかったそうで、本書はそんな彼の不当な評価を払拭しようと批評家、編集者として有名だったマルカム・カウリーが編纂したものなのだが、本書のおかげでフォークナーの評価は高まり、ノーベル文学賞を受賞することになる。それが一九四五年のことで、その後発表された作品も追加して改訂増補版が一九六七年に出版された。本書は、それの全訳なのだそうだ。本書が画期的だったのは、壮大なヨクナパトーファ・サーガの作品群を年代順に配置してまとめたことで、当時フォークナーの本で最も売れたのが「サンクチュアリ」という性と暴力に満ちた内容の本だったこともあり、彼のことを俗悪、露悪な作家と見なされていたのを一掃して再評価を高めることになったのだそうだ。

 本書を読めばヨクナパトーファ郡で連綿と続く年代記を端的に効率よく視座におさめることができるといえる。まったくのフォークナー素人であるぼくが言うのだから間違いない。そりゃあ、とっつきにくい部分もあるよ。本書の二番目に配されている「郡庁舎(市の名前)」なんて、センテンスが長くてニ、三ページにまたがっちゃうんだから、なかなか頭に入ってこない笑。もちろん、これは意図的になされていることで、他の作品では普通の文章なのに、この作品だけメルヴィル野坂昭如もビックリな長くて長ーい文章が続いちゃうのである。こういうのってやっぱりしんどいよね。

 ロングブレス的な区切りのない文章というのは、波にのると至って心地いいもので、思わず口に出してみたくなるものだが、こういう翻訳物となると、そこに訳者の力量とセンスが加わるのでなかなか難しいものがある。いや、訳者が悪いっていってるんじゃないですよ。力量とセンスって書いたけど、こういうのって降りてくる何かがないとピタッと嵌らないんだよね。

 フォークナー自身がさまさまな試みをして、それが他の作家に多大な影響を与えたのは、誰もが知る事実だが、果たしてフォークナー自身がそれを特異なる新しい発見を伴う技術として習得した上で実践していたのかとなると、どうもぼくは怪しいと感じてしまうのである。おそらく彼は自然にそういうことをこなしていったのではないかと感じるのだ。もちろん、これはぼく個人の見解であって、真相はわからない。でも、ぼくはどうも彼がそこまで考えて書いていたのかなと思ってしまう。ある程度の枠を決めて、エイヤッで書いたのではないたろうかと思ってしまうのである。結果的にそれが思いもよらぬ効果を表し、いままでになかった斬新なプロットや、小説作法に結実したのではないかと勝手に邪推するのである。

 とまれ、彼の書く小説は一筋縄ではいかない。思考が自由なために飛翔が目覚ましく、われわれの凡庸なイマジネーションでは追いつけないところがあるのかもしれない。かといって、難解そのものなのではなく、そこに光があり入り組んだ中にもひもとける何かがある。鮮烈で残酷で歴然としていて暖かい。しかもそこには人生の怪獣が潜んでいる。

 そんなフォークナーの作品は確かに刺激的だ。実際のところまだこの本を最後まで読めていないのだが、この先長い付き合いになりそうなので、一旦ここで思っていることを吐露した。残りの人生をかけて彼と向き合っていこうと思うのである。