読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

森見登美彦「シャーロック・ホームズの凱旋」

シャーロック・ホームズの凱旋

 モリミー久しぶり。いつ以来?ていうか、万城目学は、色々読んでいるんだけど、モリミーは一冊しか読んでないんだった!!

というわけで、本当にお久しぶりのモリミーなのだが、これがなんだかイマイチだったのだ。

 ホームズ譚は一応全部読んでいる。もう30年以上前のことだけどね。だから素地はあるんだけど、本書を読むにあたってそれはあまり重要なことではない。ホームズとワトソンがいるってことを知っているだけでいいんじゃないの?本書ではいろいろ聖典の登場人物が登場しているけど、基本主要二人が分っていればオッケー。

 で、内容なのだが舞台はヴィクトリア朝京都。そこの寺町通221Bにいるホームズは事件を解決できないスランプに陥っていた。だから、ホームズは事件を担当しないのである。事が起こらず、様々な登場人物が出てくるが、その出し入れだけで物語が進行し、ホームズよどうした?と戸惑いしかない。それが様相を変えるのが物語中盤以降、ここでロンドンが出てくるのである。

 いや、これ以上はネタバレだから書くことはできない。本書のたくらみをバラすことは御法度だ。作者の意図がよくわからないのだが、世界が裏返る。最初からヴィクトリア朝京都なんてありえない設定で、なんの説明もなく当たり前のように始まったホームズ物語の世界に亀裂が入って、現実がニョキニョキ顔を出してくる感覚とでもいおうか。そんな崩落した世界で、主人公はホームズではなくワトソンなのだと気づく。ホームズ譚の記述者としての役割をまとった彼は、ホームズ唯一の理解者でもあり、変人なのに天才的な探偵がただ一人心を許す親友なのだ。確かにホームズは孤高の人ではない。事件の仕組みを一番最初に紐解く存在ではあるが、彼にはワトソンというバディが必要なのである。だから二人は惹かれ合う。まるで夫婦だね。

 あっちとこっちの世界が交錯し、物語の位置づけが二転三転し、読者を翻弄しながら世界を行き来するワトソン。喜びと悲しみを味わい、同時に読者もその気持ちを反芻する。ワトソンの懊悩は、そのまま作者モリミーの懊悩でもあるのだろう。ぼくは、モリミーの熱心な読者ではないので、そこまで気持ちはシンクロしなかった。本書がイマイチの印象だった第一の要因だ。

 あり得ない設定で始まったホームズ譚は、紆余曲折を経て大団円を迎える。みんなが集うのはヴィクトリア朝京都。あり得ない世界だけど、これが本当なら素敵だなと思う。ゆるやかな時間、晴れた空、みんなの笑顔、ワトソンとホームズがいる暖かい春の午後。