読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

中脇初枝「きみはいい子」

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 本書には五編の短編が収録されている。タイトルは以下のとおり。

 

 「サンタさんの来ない家」

 

 「べっぴんさん」

 

 「うそつき」

 

 「こんにちは、さようなら」

 

 「うばすて山」

 

 五編の短編はゆるい連作みたいなものだ。ここで描かれるのはそれぞれの事情を抱えた親と子の関係。

 

同じ町を舞台に、時系列はそれぞれ違うが辛くて悲しい親子の関係が描かれる。
 
 例えば、「サンタさんが来ない夜」では継父に虐げられる小学生が登場する。彼は夕方五時になるまで家にいれてもらえない。雨が降っていても彼は学校のうさぎ小屋の前で一人佇んでいる。食事もまともに与えられない彼は、学校の給食をおかわりして空腹を満たしていた。そんな彼のことに気づいたまだ新任の若い教師は学級崩壊という別の問題を抱えながらも、その子を救おうとがんばるのだが・・・。

 

 「べっぴんさん」では過去に虐待を受けていた母親が自分の子にも同じ暴力をふるってしまう負の円環を切り取っている。幼い頃に受けた心の傷は大人になっても癒されることなく、まったく同じ虐待を我が子に繰り返す若い母親。彼女は一人の野暮ったいママ友に親しくされる。繊細さのかけらもなく化粧もせず、身につける服にも無頓着なそのママ友はしかし彼女に驚く過去の秘密を打ち明ける。

 

 あたりまえのことだが、親は子を選べないし、子は親を選べない。小さな生命が生まれた時から境遇が発生し、それぞれの人生が軌跡を描くことになる。そこには幸せも不幸せもあるが、たいていの子は親の愛を一身に浴びて育ってゆくことになる。だが、どうしてもそこに愛が満たされない関係が発生することがある。望んでそんな境遇に生まれてきたわけでもない子にとって、虐待する親との関係はまるで永遠の苦罰だ。それは背負わされた十字架であり、死ぬまで続く苛みなのだ。本当なら苦しみからは逃れるべきなのに、庇護が必要な子はそれも叶わない。たとえ暴力をふるう親でもそれが自分の愛すべき親なのだ。

 

 どうして愛情を注がれ、存分に甘える権利を持つ幼い子が、こんな身を裂かれるような苦しみを与えられなければならないのか。この複雑な感情を、決して許容することができない感情を素晴らしく効果的に描いているのがラストの「うばすて山」だ。

 

 かつて自分を虐待していた母親が認知症になり、その面倒を三日だけみることになった女性が主人公。まるで園児のようになってしまった母親の世話をする現在と、悲惨な過去の虐待のシーンが交互に語られる。決して母を許すことのできない娘。過去に受けた心の傷は四十代になった今でも決して癒されることはない。しかし、かつて鬼のように恐ろしかった母親は便所も満足に行けないくらいに幼児退行しており自分が手取り足取りめんどうをみてやらないと、何もできないのだ。娘の整理のつかない心の葛藤は、読む者を絡めとり同じ境遇に突きおとす。読み終わったあとも強く心に居座り続ける話だった。

 

 全体的に話は解決されないままで終わっているかにみえるがそこにはほのかな希望の光がさしている。

 

それを御都合主義と取れないこともないが、むしろそれが救いとなっている。その光があるゆえに、読者は辛い子どもたちの境遇を共有しながら読み進むことができるのである。

 

 感動といった心の動揺は得られないが、本書は読むに値する本だと思う。このような境遇にいる子どもたちに救いの手をさしのべる一助になるかもしれない可能性を秘めて本書は開かれるべきなのだ。