読書の愉楽

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井上章一「パンツが見える。  羞恥心の現代史」

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 ご多分にもれず。

 そうです、ぼくもパンチラは好きなのです。これは幾つになっても、変わらない感情なのです。ただの布っきれなのに、どうしてそれが見えたときうれしいのか?これは、ぼくも以前から不思議に思っていた事でした。

 著者の井上章一氏は、この男のロマンともいうべき永遠の咎を懇切丁寧に論証してゆくのである。ま、普通でいったら、何バカなことやってんの!と頭を小突かれてもしかたないくらいなのだが、この井上氏はクソ真面目にパンチラの構造をひも解いてゆく。

 まず驚いたのが、昔の女性たちのおおらかさだ。明治、大正と西洋文化が取り込まれモダニズムが開化していった日本の夜明けでは公衆便所に男女の区別がなかったということ。男性が小用している横で女性が着物をまくってしゃがんで用を足していたというのだ。また、田舎では畑仕事の合間に女性たちは催すとその場で立ちションをしていたなんて驚きの事実も知らされることになる。

 パンチラなんてどうでもよいくらいの衝撃の事実ではないか。昭和の初めくらいでも、あの銀座で道端でしゃがんでおしっこしちゃう女性がいたそうなのである。いまでは考えられないよね。

 さて、そういった事実や数々の雑誌記事、新聞記事、果ては膨大な数の小説からの引用を駆使して井上氏は当時の風俗歴史を掘り起こしてゆく。いまでは不思議な感覚が当然だった時代の話だ。そこから浮かびあがってくるのは、女性と男性の意識の変遷。どういう過程を経て女性は下着を隠し、男性はそれを見たいという欲望にとりつかれることになったのか?

 いや、ぼくはただ単純に隠されるから見たいんだと思ってたんだけどね。だって、常に見えていたらそれに固執することないもの。パンドラの箱だ。隠されているから、開けてみたくなる。これは人間の自然な情動ではないか?だから、家族のパンツなんてまったく気にならないものね。

 しかし、このクソ真面目なオッサンは、いやもとい井上氏はそれをクソ丁寧に450ページもかけて論証してゆくのである。これを力作といわずして、どう呼べというのか。

 ホントたいしたものだよね。