読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ Ⅰ」

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 昔からぼくはギリシャ神話なんかに特別惹きつけられるものをもっていて、だからそれをモチーフにした文学作品にもほのかな憧れを感じていた。ジョン・バースの「キマイラ」やこのジョイスの「ユリシーズ」などはその中でもとびきり魅力を感じるタイトルであって、難解だと理解していても一度はその世界に身を浸してみたいと思いつつこの歳までのらりくらりと過ごしてきたわけなのである。バースの「キマイラ」についてはかなり昔に一度トライして、三話目の「ベレロフォン物語」で挫折してしまったという苦い経験がある。だから、それよりもさらに強敵であるはずの「ユリシーズ」にはなかなか手をつけることができなかったのだ。しかし、何を思ったのか突然読んでみようという気になった。実をいうとこの集英社のヘリテージシリーズから刊行されている「ユリシーズⅠ~Ⅳ」は刊行された2003年当時に新刊で買い揃えてあったのである。全部で五千円近くしたんじゃなかったかな?それを突然思い出して、こりゃあ読まないともったいないぞという強迫観念にとらわれてしまったのだ。
 
 というわけで手をつけてしまった―――――この大作に。
 
 ぼくの中で「ユリシーズ」はメルヴィルの「白鯨」やフォークナーの「アブサロム・アブサロム」などと並んで『難解極まりない手強い世界文学』に分類されている本であり、おそらく読んだところで意味などわかるはずもないとはなっから諦めてしまっている類の本なのだ。長さという点ではミッチェル「風と共に去りぬ」やドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」、トルストイアンナ・カレーニナ」などのほうが長いはずだが、それらの作品は物語的に波乱万丈ともいえるドラマがあり、読めば必ず惹きこまれるはずで、そういった意味で『難解極まりない手強い世界文学』には分類されないのである。
 
 で、どうだったのか?まだ第一巻を読了しただけなのでなんとも言い難いのだが、とりあえず今感じてることを書き残しておこうと思う。
 
 驚くべきことだが、本作の内容を要約すると一行で事足りる。そこがジョイスの凄いところなのだが、ここで描かれるのは1904年6月16日のダブリンの一日なのだ。本書の幕開けは午前八時、登場人物の一人スティーヴン・ディーダラスが住むマーテロ塔の胸壁でシャボンの泡立つボウルを持ったバック・マリガンが登場する場面から始まる。ここで驚くのがこの第一章「テレマコス」につけられている訳注の数なのである。わずか四十七ページしかないこの章になんと百三十六もの訳注がつけられているのだ!だから本書を読むのには必ず二つの栞が必要になる。行ったり来たりの繰り返しで訳注のページを含めた約六百ページを読み進めることになるのだ。で、その訳注なのだが、いったい何に対してそんなに注が挟まれるのかと思うでしょ?これが本書を百科事典的小説と呼ぶ由縁なのだろうが、シェイクスピア、童話、童謡、流行歌、実在の人物、実在の場所、ことわざ等等あらゆる事柄について言及しているのである。まあ、この訳注を追うだけでも一仕事なのだが、これが波に乗ってくると楽しくなってくるから不思議なものだ。いったいジョイスの頭の中ってどうなってるんだろうと、文体の変化や記述の妙などと合わせて楽しむ余裕も出てくる。意識の流れというような技術的にも非常に難解な「3.プロテウス」や「8.ライストリュゴネス族」といった章の浮遊感とインスピレーションの炸裂や、ガラッと構成が変わってしまう「7.アイオロス」の躍動感と遊びの感覚。いくらでも深読みのできる迷宮のような小説世界がどこまでも広がっているという感じ。誤訳、悪訳などと謗られているこの丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳の本書だが、ぼくはそこまで高尚でもないし研究者でもないので、この本で充分。あとの三巻、いつになるかわからないが、このまま続けて読んでいこうと思っている。さて、ゴールはいつになりますことやら。