読書の愉楽

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ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズⅣ」

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 とうとう読了した。このⅣ巻は他の巻が本文400~500ページなのに対して、388ページと少なめだったのである。だからいつもよりはやく読み終わることができた。この巻には第三部の16、17、18章があてられており、それぞれのタイトルは以下のとおり。



 16 エウマイオス

 

 17 イタケ

 

 18 ペネロペイア



 今回もジョイスはさまざまな仕掛けで読み手を翻弄する。まず「エウマイオス」だが、ここではリフィ川のほとりにある馭者溜りの喫茶店にブルームとスティーヴンが転がり込んで、その店にたむろするいかがわしい者たちとやりとりする場面が描かれる。文体は非常に仰々しくもったいぶっていてくどい。しかしこの巻の中では一番読みやすかった。

 

 「イタケ」では喫茶店をあとにした二人が仲良くブルームの家に辿りつき、そこで起こる二人の会話や行動が描かれる。しかしここでまたジョイスはかなり逸脱する。なぜならこの章では二人の未知なる人物たちの問答形式で話が進められるのである。それはかなり飛躍した視点の問答で、本筋とは違う部分にどんどん話が飛んでいくのである。たとえばブルームがスティーブンにココアを淹れてやろうと湯沸しに水を入れるところで「水」がどういう経路をたどってブルームの家まで流れてきたか、またその水に対するありとあらゆる属性を延々と書きつらねるのである。それ以後も二人に付随するあらゆる現象や説明がこれでもかというくらいに書き込まれてゆく。

 

 そしてラスト「ペネロペイヤ」はYesにはじまりYesで終わる有名なモリーの独白で幕をとじる。ここはおよそ100ページほどの短い章なのだが、おそろしく忍耐を必要とした章でもあった。なぜなら最初から最後まで句読点がひとつもないのである。そしてほとんど改行もなく内的思考がとめどなくあふれるにまかせて文字が連ねられてゆく。また、漢字の使い方が独特で「食じ」とか「看ごふ」とか「勉きょう」などと中途半端。これはまさに三重苦とでもいうべきもので、とにかく意味がすんなり頭に入ってこないのだ。ここではモリーの生い立ちから遍歴、物の考え方、好悪、その他もろもろが詳細に語りつくされる。そしてあまりにも赤裸々なモリーの『ヰタ・セクスアリス』も語られるのだが、これがなかなかエグイ部分もあっておそらくこれが発禁処分になった一因なのだろうね。

 

 というわけで物語は1904年6月16日午前八時にはじまり翌17日の午前二時半に幕を閉じたのである。いやあ、長い一日だった。確かこれを読み始めたのは7月だったのだ。4ヶ月以上かかったってことだ。ほんとうにずいぶん長い一日ではないか。

 

 本巻に評論を寄せているのは池澤夏樹氏だが、氏は「ユリシーズ」がありジョイスがいたからこそフォークナーは「アブサロム、アブサロム!」を、マルケスは「百年の孤独」を書くことができたのだと書いている。また訳者の一人である丸谷才一氏は「ユリシーズ」を『巨大な砂時計のくびれの箇所』だと例えて、「ユリシーズ」以前の説話藝術がすべてそこに流れ入り、それ以後のすべてがそこから出て来たと論破した。だからこれだけ苦労してでもこのやっかいな代物を読む価値はあるのだというのである。

 

 ぼく個人の感想としては、まず第一に本書を読んで得られるのは並々ならぬ達成感だった。まさにそれは長々と横たわる峻険な山脈を踏破したかのような充足感を感じさせてくれた。次に感じたのはジョイスの茶目っ気だ。頭のいい学者さんがいくらでも難しい言葉をつかって「ユリシーズ」についての論文を書くことは可能だろうし、それだけの作品をジョイスは書いてしまった。しかしそこには知的な遊戯が存在し、おそらくすべてを理解できなかったとしても、読んだ者にはその精神は充分に汲み取れるのである。ぼくみたいな、なんの学もない普通の男でもね。たしかに本書は難解だ。しかし、それは努力すれば難なく乗り越えてゆける難解さであって、けっして読者を拒絶するものではない。本書を読めばそれ以前と以後の何かが必ず変化する。どうかみなさん、その変化を味わってください。