読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ジムノペティ

 月が見えているが、それは怪我をした月だった。ぼくはトイレで用を足しながら、窓からその血まみれの月をぼんやり見ていた。妻は白目を向きながら熟睡しており、邪まな意識が常に背後を流れていた。

 昨日薬局で買った居直り薬はフルヘインとサボカトルの混合薬だったため、服用すれば、たちどころに効果があらわれる反面、副作用としての意識洩れが著しい。ぼくは、自分が認識している以上に妻に恨まれているらしい。

 タンクのレバーを回したとき、カチャリと何かのスイッチが作動する音がした。まさか、トイレタンクの水洗レバーに何かの仕掛けがしてあるわけがないと高をくくっていたが、どうやらそのまさかに出くわしたみたいで、途端にファンファーレが鳴り響き、周りの壁が消失した。

 そこで場面が変わって、ぼくは夜のグラウンドらしき所に佇んでいた。気持ちのいい夜で、相変わらず月は血まみれだった。

 大きなライトに照らされたグラウンドには女の子が一人立っていた。それは小学五年生のあきこちゃんだった。ぼくの初恋の人だ。あきこちゃんは浅黒い肌でニコニコ笑っており、きれいな歯が蛍光灯のように白く光っていた。心細さと懐かしさを同時に味わったぼくは、あきこちゃんに声をかけようとするけれど咽喉が凍ってしまって一言も声が出てこない。少し前のめりになった姿勢のままで大きく口を開けたままの格好でたたらを踏んだ。

 昔を思い出す。クリスマスの雪に沈んだデパート、青い水槽、ジムノペティ、同級生の女の子がポーチに隠していた生理用品。

 恥ずかしさと、期待と、誘惑がないまぜになってぼくの気持ちが乱される。あきこちゃんは相変わらず歯を光らせて微笑んだままグラウンドの真ん中に佇んでいる。『あちらとこちらは隔たれているんだな』ぼくは頭の中で考える。ぼくはあちらへは行けないし、向こうもこちらへはこれないのだ。

 ぼくは抱えていた大きな不安を下ろした。月が流す血が空を赤く染めてゆく。妻はまだ寝ているだろう。

 流れだした意識が周囲を睥睨しながら、現実を侵食していることだろう。

 ピアノはまだか。許してくれるのか。昨日のぼくはいつもと違ってた。ゆっくり歩こう。歩いて帰ろう。

 『結構うまくやってるよな』ぼくは思う。たいしたことはしてないが、なんとか今までやってきた。

 月が血を流しつづけ、それが世界を赤くする。

 さあ、家に帰って居直り薬を飲もう。そして妻の隣に身を横たえよう。