カズオ・イシグロの短編は以前に集英社ギャラリー「世界の文学 イギリスⅣ」に収録されていた「夕餉」という作品を読んだことがあったのだが、非常に短い作品で日本の家族の食卓の風景を描いているだけなのに厳かで暗い雰囲気の横溢した作品だったと記憶している。だから今回彼の初短編集を読むに際してイマイチ気乗りしなかった。そういう気分でなかったのだ。あの「夕餉」のようなゴシック風味の短編ばかりだったら気が重いなと思ったのである。
だが、読み始めてその心配は杞憂だったと喜んだ。なんて素晴らしい短編集なんだ。これといって劇的な展開があるわけでもないのにまさしく目を離せない話ばかりで、ほんとむさぼるように読んでしまった。
本書に収録されているのは以下の五編。
「老歌手」
「降っても晴れても」
「モールバンヒルズ」
「夜想曲」
「チェリスト」
副題にもあるとおり、各短編で描かれるのは音楽に関わりのある人々の物語である。そして、そこでは夕暮れに象徴される儚い夢と栄光にとどかないもどかしさも描かれる。だが、本書を読んで得る感想に、挫折や苦悩はない。人生の黄昏と届かぬ夢を描きながらも、全体から受ける印象はかぎりなく明るくハッピーなのだ。ぼくは本書を読んで、とてもよく出来た秀逸なオムニバス映画を観たような気分になった。
ある短編ではドタバタ喜劇の風味を味わい、ある短編では爽やかな青春物の洗礼を受け、ある短編では滋味あふれる複雑な人間模様を楽しんだ。ひとつうれしい驚きだったのは、カズオ・イシグロのコメディ作家としての資質を確認できたことだ。「降っても晴れても」や「夜想曲」での彼のコメディアンぶりは堂に入ったもので、おもわず声をあげて笑ってしまったほどである。未読で興味のある方は是非読んでいただきたい。特に「夜想曲」はオススメだ。
これで彼の本は長編二冊とこの短編集合わせて三冊読んだことになる。すべての本において期待以上の満足が得られている。彼もぼくの中ではジュンパ・ラヒリ、アリステア・マクラウドと並んで殿堂入りの作家となった。ほんとうに、これらの作家と同時代に生きれてうれしい限りである。