読書の愉楽

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村上春樹「騎士団長殺し」

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 象徴としての事象を描く手法は、目新しいものでもないし誰もが使う一般的な修辞技法として定着している。いわゆる暗喩や隠喩と呼ばれる比喩表現は、深読みの可能性もふくめてどんな文章の中にも潜んでいると考えて間違いはない。以上のことを踏まえて、さて「騎士団長殺し」なのである。

 副題にもあるとおり、この物語は散りばめられたメタファーをそれぞれの読み手が、自分なりに解釈して消化する物語だ。もちろん、そんなややこしいことは抜きにしてただ単純にストーリーを追って物語の波に乗るという読み方も可能だ。しかし、本書の中には多くのキーワードがまるでモグラ叩きゲームのようにひょこひょこ頭を出しているのである。おっと、ここまで書いてきてちょっと気になったのだが、ぼくは本書を肯定する者ではありません。どちらかといえば、否定派だ。それも承知で読んでもいいよいう方だけ、以下の文章を読んでいただきたい。

 
 先にも書いたとおり、ここには多くのキーワードが散りばめられ、それを踏まえてさまざまなメタファーが埋めこまれている。埋めこまれている?いや、そうじゃない。さらけ出されている。メタファーとは名ばかりで、おそらく作者はそうやって読者に前知識としてメタファーという概念をあたえておいて、それを踏まえて数々の幻想を描いたのである。ここで、前段のメタファーをそれぞれの読者が自分なりに解釈するという文章が反転する形になるが、そうじゃない。騎士団長風に書くなら『そうではあらない』のである。

 おそらく読書好きなら誰もがご存知だと思うが、メタファーなんてものは作者の意図以上に受け手の解釈で成立するものでもあるのだ。読み手はそこに独自の解釈を成立させてしまう。深読みが好きな人はさらに突っ込んだ論理を構築する。だから暗喩・隠喩なんてものは一人歩きする場合がままあるものだと思うのである。ひどい場合だと、作者が思いもよらなかった解釈をする人が現れて、それに作者が乗っかってしまうなんて逆転の構図がうまれたりもするのである。

 斯様にレトリックを持ち出してくると、話は伝わりやすくなる半面そこに無限の解釈を生むことになる。本書の中で最大のメタファーはもちろん騎士団長だ。しかし、免色(めんしき)という謎の人物や、大きな穴、鳴る鈴、絵、春雨物語スズメバチ、死んだ妹、小さい胸を気にする少女、白いスバル・フォレスターの男などなどメタファーとして機能する数々のキーワードがここには散りばめられている。

 それを喜ぶか喜ばないかは、各人それぞれの好みだ。ぼくは、これから書かれる村上作品は、もう読まなくてもいいなと感じた。未読の「世界の終わりとバードボイルドワンダーランド」のみは読んでおきたいと思うが、新作はもういいや。でもね、騎士団長は好きだよ。彼とは面と向き合っていろいろ話をしたいと思うのである。