読書の愉楽

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トニ・モリスン「青い眼がほしい」

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 本書は、かなり革新的な小説だ。ページを開くとまず読者はアメリカの教本で有名な「ディックとジェーン」の一節を読むことになる。



 『家があります。緑と白の家です。赤いドアがついています。とてもきれいな家です。』



 これに続く文章はアメリカの幸せな白人家族を描写する小学校の教本として定番のものだったが、白人至上主義だという理由でいまは廃止されている。いかにも幸せそうな白人の中産階級を描くこの文章は、行をあけて再び描写される。



 『家があります緑の家です赤いドアがついていますとてもきれいな家です』



 おわかりのように句読点が消えてしまっている。読む者は少し居心地の悪い思いでこの文章を読む。するとまた行をあけてこの文章は三度くりかえされる。



 『いえがありますみどりのいえですあかいどあがついていますとてもきれいないえです』



 もはや文章として機能しなくなっている。いったいこの三様の文章は何を象徴しているのか?読者はその疑問をもったまま、ようやく本題にはいることになる。

 

 次のページでは、はやくも本書の事件の核心部分が提示される。何が起こったのか?でも、どうしてそうなったのかではなく、どういうふうに事が起こったのかの経緯を語ることにしようといって『秋』の章に引き継がれてゆく。
  
 醜い黒人の少女ピコーラ。彼女は幸せになるために神さまに青い眼にしてくださいと祈っている。彼女は白人こそがこの世で一番美しい存在だと信じている。貧しく教養のない家庭に生まれ、同じ黒人仲間からも蔑まされている彼女の家族。最底辺の暮らしの中でアイデンティティを見失い、縋るものを探して迷いなくその考えに固執してゆく愚かなピコーラ。いや、彼女が愚かなのではない。彼女がそういう境遇になったのは人間が作り出した土壌なのだ。豊かで、実りをもたらす土壌。しかし、その土壌には時にさまざまな要素が混じってゆき思いもよらない反応を引き起こしたりもする。1941年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。不毛な土地において種は芽を出さなかった。そう、土壌は不毛だった。だからピコーラは父の種を宿したが、その種もしなびて死んでしまった。

 

 差別と偏見。問題はそれだけではない。モリスンは人類が抱えるこの大きな問題を当人の、それも子どもの目を通して清廉に描いてゆく。清廉で純粋ゆえに、そこにはきれい事ばかりでない残酷さも含まれてゆく。物語は神話性をおび、時系列を逆にたどるような構成でこのごみと美しさの問題を掘り下げてゆく。しかし、モリスンはそこに救いも弾劾も描きはしない。彼女は、どうしてそうなったのか?という問題の答えを状況に求める。誰が悪いのかではなく、どのようにしてみんがそういう状況に追い込まれたのかを描くのである。

 

 いまだに根深く残るこの問題は、これからも決して解決されることはないのだろう。基準に照らしあわせた価値観と、それによって偏見と差別にさらされるという動かしがたい事実。自分がどちら側なのかという基本的な問いかけを無視して、人はすべてを受け入れることはできないのか?生まれながらの敗者ではなく、自分としての価値を胸をはって示すことはできないのか?本書を読んでいろんな思いが頭をめぐる。

 

 そこで最初の教本の文章に戻ってくる。完璧で幸せなアメリカの家族。それを目指し、なんとか近づこうとする人々。しかし、その試み自体が無駄な努力となってしまう。どうやっても白人にはなれない。そういったもどかしく、どうにもできない状況をあの三様の文章はあらわしているのかもしれない。やさしい光につつまれ、あたたかい食事に恵まれ、一身に愛をうける幸せ。人々が自分を認めてくれて、同じ人間として同等に接してくれるあたりまえの生活。そういった誰もが対等に受けることができるはずのささやかな生活ができないという不幸。ピコーラはひとりじゃない。いまでも世界中にピコーラがいる。そのことに気づかせてくれる、そのことに目を向けさせてくれる、それが本書を読む意義なのである。