もう文庫落ちしているが、ずっと以前に購入してあった単行本を読了。「ソロモンの偽証」第一部 事件編である。この話は「小説新潮」で連載されていたのを知っていたのだが、ずいぶん前から書き継がれていたので、多大なる期待を寄せていた。調べてみれば連載開始から単行本の刊行まで、およそ十年の月日が流れている。それほどの膨大なストーリーと「ソロモンの偽証」という思わせぶりなタイトルで、ぼくはこの作品が本になる日をまだかまだかと待っていた。
しかし、それだけの期待を寄せていた本作は読みはじめてみれば、これがなかなかの期待外れだったのだ。いや、早計なのは百も承知でぼくはこのことを書いている。これから二部、三部と読みすすめれば、おそらく今の評価が180°変わることもあろうかと思われる。それでもぼくはこの時点での感想としての正直な気持ちをここに書いておきたいのだ。
ここで語られるのは、とある中学校で起こった男子生徒の自殺に端を発する一連の騒動である。クリスマスの朝に雪で覆われた校庭で冷たくなっていた柏木卓也。彼は本当に自殺したのか?それとも誰かに殺されたのか?真相があきらかにされないまま物語は事件をとりまく多くの人々の言動を描いてゆく。
そこで感じたのは、執拗な書きこみの異常さなのである。これはぼくが個人的に感じていることなのだが宮部みゆき作品の最良の部分はデビューした80年代後半から90年代前半までで出尽くしていると常々考えていた。かろうじて2000年になってしょっぱなに刊行された「模倣犯」は素晴らしいクオリティだったが、ぼく的には日本SF大賞を受賞した「蒲生邸事件」や直木賞をとった「理由」ぐらいから作品の質的には劣化してきたのではないかと感じていた。それもこれもみな、あまりにもこだわりすぎる人物背景の書きこみや心象の追及がまどろっこしいからなのだ。ここでどうしても言及したくなるのはスティーブン・キングの存在なのだが、彼はあまりにも荒唐無稽なテーマを物語の主軸に据えながら、それを執拗な書き込みによって積みあげたディティールで覆うことによってリアルな世界を構築し、読む者を物語世界に引きこむという離れ業を難なくやりとげた作家であり、その手法に影響を受けた日本の作家は数多くいた。もちろん宮部みゆきもその一人だと思うのだが、彼女の書き込みはリアルな世界の構築に一役買うのではなく、物語を冗長に引きのばすだけの効果しかあげていないように思うのだ。その事を痛感したのが、上記の「蒲生邸事件」や「理由」だったというわけなのである。だからぼくはいまだにどうして「理由」が直木賞をとったのか理解に苦しんでいる。
それはさておき本書なのだが、本書も然り。どうしてここまで話をすすめるのに、これだけの枚数を費やすのかと思うのである。これから先、物語がどううねってゆくのかによって最終的な感想は変わるのだろうが、現時点では正直こんな感想しかもてないでいる。宮部みゆきの現代物は「模倣犯」を最後に息絶えてしまったのか、二部、三部と読みすすめて見極めたいと思う。