読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

隙間の女

 洗面所で歯磨きをしているオレはいつものようにガシガシと激しく擦っているからこれまたいつものごとく歯茎から血が滲んできて、それはなんだか決まりごとのようになってるのでさほど気にせず鏡の中の自分を見ながらガシガシしてると目の隅で動くものを認知したような気がしてふと手を止めてしまうけど、それはやはり気のせいだと思い直して歯磨き再開とまた勢いよくガシガシしてたら今度こそ何かが見えた。


 それは女。髪の長い女。


 鏡に映っている便所の戸が少し開いていてその隙間から女が覗きながらゆっくり上下に移動しているのだがいきなりのホラーな展開は心臓が痛くなるほどの恐怖を呼び起こし、オレは完全にフリーズしてもしかしたらこのままあの気味悪い幽霊と同族になってしまうのではないかとまで観念したけど、やはり人間そんなに簡単に死んでしまうことはなくて実際のところ気絶して意識がなくなったらこの窮地もなんとなくやりすごせるのになんで気を失わないんだオレとまで思ったけどそれは一瞬のことであってここに時間の経過は考慮されていない。


 女。髪の長い女。こっちを見る禍々しい目。冷える空気。


 恐怖はMAXでオレはその場にゲロゲロと食べたばかりの朝食をぶちまけ、尚且つ下からは勢いよく小便をまき散らしてしまいこの後始末はいったいどうしたらいいんだと結構冷静なことを考えながらも上下に動く女の顔から目を離すことができずに瞬きも忘れ思いっきり目を見開いていたが、それは人間の生理作用に反した行為なのかやがて自然に目の前がぼやけ視点がブレてきてベリベリと引っぺがすように目蓋を閉じて再び開いたときには涙にかすんだ目で見た先に女はいなかった。


 女。髪の長い女。上下に動く女。残像。惨殺。凄惨な過去。


 ようやく緊迫した状況から解放されたオレは呪縛を解いたけどショックはなかなか消えてくれなくて大声で叫びだそうとする口を両手で必死に押さえつけ、それでも声を出そうとする口が無慈悲に手を噛んでしまい思わずうめいてしまうほど歯が肉に食い込み口の中に塩辛い液体が流れこんでくるのがなんだかうれしくて涙が出てくるけどやっぱり怖いのにかわりなく、それは嗚咽となって手の隙間から洩れてくる。


 女は消えた。が、因縁は去らない。女の残像よりも濃くその血腥い思念があたりを漂う。


 オレの目はそうしながらも鏡に映る便所の戸の隙間を凝視しており、やはりそこには不穏なものは一切なくて暗がりだけがオレを見つめかえしていたが、本当はその奥に何かが潜んでいるのかも知れず目に映る恐怖はとりあえず去ったが潜在的な恐怖は腹の底がズドンと重くなるほど存在しておりはやくシャワーを浴びてこの汚辱からも解放されたいオレの行動を束縛していた。


 オレは怖い。女が怖い。こっちを見てる目が怖い。長い髪が怖い。女の過去を知りたくないなんてことだ、恐怖はやはり去らないしどちらかというと動悸がおさまってきた今のほうがさっきよりも恐怖が倍増しているのは気のせいではないだろうしおそらくオレは気がフレかけていると思うのだがこれは思いすごしかどうなのか、誰にも訊けないし訊きたくもないしこんなに激しく手を噛んでいたらそのうち血がとまらなくなって失血死してしまうとわかっていても止めることができないのはあの髪の長い女の呪いなのかもしれない。


 オレの目は女を見ていない。女の幽霊はいない。もういない。長い髪もない。気味の悪い目もない。


 いや、いた、女はいた暗闇の底にいるこっちを見てるうずくまってこっちを見てる目だけが光っているそんな目でオレを見ないでくれどうしてオレの前にあらわれるんだお前のことなど知りもしないしどうしてオレがこんな目にあうのか心底わからないが唯ひとつだけいえるのはもうオレの正気がなくなりかけているってことでそれはあと一押しで奈落におちてしまうということだ。あああ、もういけないオレは屈してしまうよ母さんもうダメだオレはもう立っていられないあいつが手を伸ばしてきた。