読書の愉楽

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小野不由美「残穢」

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 「残穢」とは、読んで字のごとく穢れが残ることである。穢れとは、ただごとでない。穢れは汚れではない。汚れのように洗い流すことのできないものなのだ。穢れは、お祓いや清めによって浄化される場合もある非常にやっかいなものなのだ。そう、穢れは一度ついてしまうと染みつき、そこにとどまり、それに関わったものに影響を与え続けるのである。

 

 では、穢れとは何なのか?この観念は世界的に広まっていてその多様さには目をみはるものがあるが、万国共通で認識されているのが『死』だ。死は絶対的な究極の結末であり、それを迎えることによってその人はこの世からいなくなってしまう。だから現代でも、身内の死に対して喪に服す期間があるのだ。そういった忌中の期間は、死を共有する者にとっては表面的には身内の死を悲しみ、その気持ちに整理をつける期間だといえるが、対外的には、死によって穢れた者を一定期間遠ざけておくという意味合いもあるのだ。まして、その死が自死や凶事によって引きおこされた禍々しい因縁絡みのものならば、その穢れは最大限の威力を発揮する。

 

 本書の発端は、作者本人であろうと思われる作家のもとに読者からの手紙が届くところからはじまる。二十年ほど前に怖い話を蒐集していた頃の名残りであるそういった手紙がいまでも、ときたま届くのだ。
 手紙の主は三十代の女性で、都内のプロダクションでライターをしていて、最近首都近郊にあるマンションに越したばかりなのだが、そこに何かがいるような気がするという。興味を惹かれた作家は、その女性とともに何が起こっているのか?またそれがどうして起こっているのか?を探っていこうとする。だが、それはやがてその場所だけには留まらない大きな『穢れ』の根源を探りあててしまうことになる。

 

 日本の神道には昔からある観念で、「穢れ」に触れたものはそれに汚染されるという。いわゆる触穢(そくえ)というその考えは古来から日本の祭祀とも密接に結びついており、平安時代に編まれたという「延喜式」という古代の法典にも死穢30日、産穢7日、六畜の死穢5日、産穢3日の謹慎が定められていたそうな。死穢についてはさらに詳しく本書でも触れられているが「甲乙丙丁展転」なんて規定があったりしてこんなこと気にしていたら、おいそれと葬式にも行けないなと思うのである。

 

 ぼくなど、もっぱら神や仏なんてものをまったく信じていないほうなので、本書を読んでその多様な解釈に驚くばかりだった。この恐怖の伝播は、あの「リング」と瓜二つなのにも驚いてしまう。しかし、あちらはビデオ・テープという過去の遺物となってしまった物が媒介していた『それ』を本書では観念として成立させてしまったので、より身近にその恐怖が寄り添ってしまうことになった。本書を読んで、怖かったとか、この本を家に置いておくのも躊躇われるといわれる所以だろう。

 

 ぼく個人としては、凶事が起こってそれが伝染してゆく過程を逆に辿る旅は、ミステリの謎解きにも似た興趣があり、それはそれでおもしろかったのだがドキュメンタリータッチで描かれている分、写実的な描写をまどろっこしく感じる部分があり、緻密ゆえの歯がゆさも手伝って怖さは半減した。最終的に辿りつく大元の元凶にもっと劇的なインパクトがあったらさぞかし記憶に残る『怖い本』となったのにと少し残念だった。でも、これがドキュメントなのだろうと良いほうに解釈して、本を閉じた次第。

 

 しかし、怪談話のネットワーク的なつながりも興味深かった。こちらで追いかけている話が違うアプローチで現出したり、めぐりめぐってお互いが同じ話を追いかけてたことに気づいたりと、縁があるというか呼ばれてるというか、不思議なものだなと感心した。

 

 というわけで、本書はそんなに怖くない。本当に怖いのは、やはり人間の業なのだなと気づかせてもらった。因縁が怖いのだ。それに伴う現象ではなく、それが起こるべくして起こっているその理由が怖いのである。